«前の日(03-26) 最新 次の日(03-28)» 追記
2002|05|09|10|11|
2003|02|03|04|05|06|08|09|10|11|12|
2004|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2005|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|06|07|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|05|
2019|01|03|04|
2020|01|

lost luggages ねぶくろ 書簡
--sleeping bag・g-ism/ist--

27-03-2003 / Thursday

_ 夜遅くまで、練習に励む。なんとか合格ライン。もう一度レジュメを作り直して。

もう11時半を回ったというのに、車に乗ってラーメンを食べに連れて行ってもらって、そのまま自宅まで送らせてしまう。なんとわがままな人物なのだろうか、と笑い合いながら、たぶんこの顔ぶれでは最後のドライブとなった。夜の国道は、それでもそれなりの混み具合。私の住んでいるところがどこだかしらなかったような、某遠隔地出身のドライバーは、「いったいいつ着くのか」と不安に思いながらも、車を走らせてくれた。無事に彼らは戻ることができたのだろうか。

長い道のりだったなと、改めて思った。

_ ATOKが突然死ぬ。パニックになる。もうーっ。三回ほど入れ直して、ようやく復帰。やはり太郎さんと言語さんは、相性が悪いのか?わからん。

_ ううーん。


27-03-2004 / Saturday

_ ゆっくり目に起きて、ひさびさの朝寝。今回のNHKの朝の連続ドラマは始まった当初を除けば、ほとんど欠かさずに観てきた。旅行に行っていたときも、HDDに録画していたくらい。とにかく明るくて、おもしろくて、健康的なドラマだったから、観るのが楽しみだった。岸谷五朗の大阪弁がちょっと下手くそだったけど、主人公の女の子はほぼ完璧な大阪弁だったし、違和感の残る人も多少いたけど、それはもう仕方がないなと思える程度であった。

我が家は、私の小さいときからずっと朝はパン食である。小柄な両親は、子どもだけは大きくなるようにと「外国人みたいに朝はパンとミルクにすれば、大きくなるのではないか」と考えたのだという。結果的に、私も弟も、身長は完全に両親を越えて、無事に育った。ま、これがパン食と関係あるのかどうかは不明だけど。

着物を着てちょっと高い草履を履くと、いつもよりも目線が高くて、とても新鮮な気持ちがした。今、反省しているのは、ちょっとがばがばと早足で歩きすぎたこと。もっとしずしずと歩けばよかった。

をを、あと、袴って、スカートなんだ!ほんとの筒。自分が剣道部だったので、袴といえば、それは筒状ではなく、ちゃんと中がふたつに分かれているものしか想像していなかったので、着付けの時にびっくりした。衣装選びに行ったときには、私の袴はまだ仕立て上がったばかりで、服の上から当ててみただけだったので。学部の卒業の時からずっと最後まで着物は着んとこっ!と思っていたので、今まで知らなかったというわけ。学位があってもまだまだ知らないことはたくさんあるのだ。生涯、勉強です。

_ 思いがけない人からお祝いをいただいたり、宴会を開いてもらったりして、うれしいなと素直に思っている。今回は500人以上が同時に学位授与されたという話をしたら、「ありがたみも、価値もないねえ」と言われたのだけど、500分の1の学位じゃなくて、500とおりの道程を経てたどり着いた結果だと思った。それからまた500とおりの次の道標を目指していくのだと思った。

来週はゼミで集まる。名目は別のところにあるらしいが、実質的にはお祝いしてくれるのだそう。いっひっひ(笑)。


27-03-2006 / Monday

_ ハノイが恋しくなっている。それまで、わたしが一番好きな街は、フライブルクだったのだが、今はハノイ。ドイツ人の旅人とたくさんあったのは偶然だと思うが。北の方にある西湖に向かって、緩やかに傾斜している旧市街は、歩いていてこれほど楽しい場所はなかった。目に映るものすべて新鮮で、懐かしい。通りごとにおなじ商売を営む店が並んでいる。その合間に古い寺院が挟まっている。古い商店の奥に燻る漢方の匂いは、フレンチ・コロニアルな建築のそこここにも、うっすらと漂っているように見えるのだが、それがとてもよい感じ。暗い一階の土間に差し込む黄色い明かり。朝の冷たい空気の中を道案内のように漂ってくる暖かい食べ物の匂い。光と匂いが混然としているのに、それがちっとも不快ではない。

コンデンスミルクの沈殿した熱い珈琲を、黄色い電球の下で飲んでから、朝が始まる。汗をかきながらブンやフォーなどの麺類を掻きこんだ。ある朝は、皆が白い息を吐きながら、舌をやけどしそうに熱い粥を食べているのに出くわした。すでに何度か通った牛肉のフォー屋で朝ご飯を食べたばかりであったが、ここへお座りと手招きされ、人民服のようなものを着たおじさんのとなりに腰を下ろす。すぐに差し出された粥に、五香粉を振りかけて食べた。おいしくて、なにもことばに出せないが、粥をよそってくれた人に笑いかけたら、それで十分だったようだ。何を食べようかと迷っていたある朝は、角を曲がると、そこに天秤棒をおろして、熱々のおこわをハスの葉に包んで、次々と売りさばく行商人と出会った。人垣ができている。わたしの入る余地はなさそうに見えたが、おばさんが<あなたはどれをたべたいの?>と聞いてくれたように思った。うっすらとオレンジ色に染められた糯米を指さした。ハスの葉の香が立ち上る。指で丸めたオレンジの塊は、ほんのりと甘く、おいしかった。ニンジン?おいしい、おいしいと声に出しながら、わたしもこちらの人と同じように、しばらくは道端にしゃがみこんでほおばった。

旧市街をぐっと南に下がってホアンキエム湖が見えてくると、交通量はさらに増える。しかし、水辺には不思議な静けさが漂う。いたるところに深く枝を垂れ、水面に濃い影を落とす柳が見える。まるで、緑の黒髪を垂らして水面を鏡のようにのぞき込む女の姿のようだ。カンフーシューズの足をゆっくりと持ち上げてはおろす太極拳の老女。非の打ち所のない帽子とスーツの老人が、ベンチに腰を掛け、フランス語の本を読んでいる。道端に点在する熱いお茶を売る露店に並べられた、風呂の椅子のように小さな椅子に腰掛けると、こちらがベトナム語を知らなくても、どんどんと話しかけてくれる。指さし会話で、食べたいものを食べ、ひたすら歩く。ハノイから海岸沿いに、ぐっとホーチミンまで歩いたが、ハノイの印象がわたしには強くて、気がつけば彼の地の思い出に浸るばかりだった。ホーチミンの安宿は、向かいの家との距離がほんの3メートルほどのごみごみとしたところにあった。裏通りの、ふつうの家が建ち並ぶ安宿街だったが、ときおり路地から聞こえてくるこどもたちのベトナム語が、タイル張りの部屋に飛び込んできて、小さな木霊のように天井をしばらく駆け回り、消えていった。暑い昼間には、水シャワーを浴びたあと、体に布を巻いただけで、しばらくベッドに横になる。いつの間にか眠ってしまい、夕方の熱気の中で目を覚ませば、また別の木霊がやってきていて、ここがハノイだかホーチミンだかわからなくなってしまう。ほんとうに自分は旅をしてここまで来たのか、最初からここにいたのか。

ぼんやりした頭で夕方の散歩に出る。排気ガスでしろく煙った交差点の露店で、珈琲を飲む。アイスコーヒーを飲み干して、残された氷越しに尋常ではない量の車とバイクの波をみていると、おばあさんがぬるいハス茶のポットを持ってきてくれる。これをグラスに注ぎ、コーヒーミルク味のお茶を飲むのだが、その組み合わせをごく自然に受け入れるわたしがいる。もう何年も、そうやってコーヒーを楽しんできたかのように。

そんな旅のことが懐かしく思い出され、旅の手帳を読み返してみた。また行きたいと思う旅ができたことの幸せ。


27-03-2007 / Tuesday

_ Google Docs&Spreadsheets を使って共有ファイルを作ったのだけど、これはひょっとしてわたし以外の人には見えていないのかも。わたしはグーグル・アカウントを持ってるから別段、問題なしなのだが、ログアウトしてアクセスすると、アカウントを作れと言われる。面倒だな。。これならば普通に添付で送ったり、メールで直書きしたほうがよかったのかも。

ほんとに思っていることをなかなか言ってくれない人が多いところでやっているので、疑心暗鬼になりそう。でもそれがだめだということもわかっているので、とりあえず、心配する対象は一人に絞って、「ほんまにだいじょうぶなんかい、ワレ!」という感じでメールを書いた。逆効果ですな(苦笑)。

_ 結婚難民ということばがあるのを知る。難民か。。わたしの場合はどうなんでしょうね。もうこのまま枯れ果ててしまうのかと思うと、ちょっとしたホラー映画並の戦慄を覚える一方、まあそれでもいいかあと思ったりもする。小説を読まなくなったことと、恋愛すら難民状況に陥っていることと、相関関係があるのだろうか。何に対しても、「たのしい」という気持ちを持たなくなったのかもしれない。これは老人化とかではなくて、もっと違うところの問題かもしれないな。日本にいるからそうなるのかもしれないし。

某国に行けば行ったで、それはまたいろいろなことがあるけれど、少なくとも、日本にいるのとはまったく違う日常を生きているような気がする。日本にいると現実に向き合わねばならぬから、単なる逃避なのかもしれないけど、また逃避できるものだとただ幻想を覚えているだけなのかもしれないけど、いずれにしてもバランスが取れていないのかなとも思う。もう4月だからなあ。考えないように努力していても、考えざるを得ないことに直面することがあるから、しんどくなっているのかもしれない。4月から無給研究者になる。それなのにあなたの研究テーマが所属部署の中心的研究課題ですから思う存分研究してください、自分でお金を見つけて、といわれているからしんどいのかもしれない。社会的な身分や所属を用意してあげるから、自分でファンドを見つけて、好きなように研究してね、というスタイルそのものは、別に珍しいことではないし、そうネガティブに考える必要もない。わたしの場合に問題になるのは、それにもかかわらず、毎日、出勤せいといわれていること。あれもして、これもして、といわれていること。それなのに、いつもあなたはまるでこの部署のメンバーではないかのような言動を取っている、もっとメンバーとしての自覚を持って欲しい、あなただってフルメンバーなんだからと言われながら。部屋なし、パソコンなし、電話なし、交通費もなにもかもなしでもフルメンバーに勘定してもらっていて、うれしいと思うべきなのかどうか、もうわからないや。まともに扱われていないのがなぜかということを、よくわかっているだけに、なんともいえない。

でも、大学とはまったく別の世界で少しずつ、いろいろ試し始めるようになった。研究はいつだってどこでだってできるのだから、あえてことを荒立てるような方向にはいかないで、静かに自分の場所を見つけようとは思っている。静かにやり過ごす。わたしが飼い慣らしているのか、飼い慣らされてしまった結果なのか、文句を言ってもはじまらないことを承知しているからなのかどうなのか。静かにがんばるしかないよなあと思う。結婚難民かつ恋愛難民かつ就職難民。確かに、泰然自若しかないです(苦笑)。


27-03-2008 / Thursday

_ 大学で一番えらい先生からダイレクトメールがあったのが2週間前のこと。部署の一番えらい事務の人にかくかくしかじかで云々と説明したところ、なんでそんな大事なことを今までいわなかったのか、などと叱られて、24時間以内に書類を書くようにと指示を出された。そんなこんなのあったあとに帰国して聞いた一番最初にニュースは、無事に書類が通過して、もったいないくらいにたくさんおかねをつかわせていただくことになったということ。帰国の前日、NHKでばくしょうのおふたりとご一緒されている先生をみて、楽しそうやなーと、はふはふ笑っていたのであるが、えらいことになってしまった。がんばれということなのかと素直に感謝。4月からは二足の草鞋人。これまで同様、楽しみながら進めて行ければそれでよい。


27-03-2009 / Friday

_ なんとかソフトランディング。

_ 一緒に夕ご飯食べたりする友だちがいるといいんだけど。友だちなんて、もう誰もいない。


27-03-2011 / Sunday

_ 研究室代わりに使っていた部屋の片づけで大学に来ている。道中、考えていたこと。今回の被災の状況が、激甚地震津波による破壊的な状況であることを考えれば、今、「復興」ということばを現実化する方向で動くのは早急であるように思う。もちろん政府や地方行政は、そのことを把握しているはずだと思う。少なくとも、向こう二カ月間(災害発生から大体3カ月間か)を、緊急救援支援期だとすれば(これは一般的な災害における考え方なのだけど)、仮設住宅をどこに建設するかという問題には、かならず、今後の防災対策をいかに配置するかという問題の解決が伴われなければならない。都市計画と防災対策の両方ということ。個別の町や市が、独自に取り組むという考え方では、追いつかない自然災害があるということが、今回わかった。なのだから、災害対策インフラのハードな部分に関しては、広域地域連合的な発想で取り組むべきではないかなと思ったりする。いわゆる通常の「復興」ということばが、今、被災している人から発せられているのだとすれば、それはきっと、まだ今回の被災の全貌を誰も捉えきれていないからでもあるし、希望を失ってはいけないという必死の気持ちでもあるだろう。グラウンド・ビジョンがまだ建てられない段階での、急ごしらえの「復興」「復旧」は危険だ。それに今回の災害からの「復興」や「復旧」は、元の状態にプラスアルファといった内容では、足りないのである。本当は、今、まだボランティアが現地に存分に入っていけない時点で、こういった議題をどこかで話し始めていたほうがいいんじゃないかとも思う。少し落ち着いてきた段階で、復興計画の大筋を政府や地方行政に伝えて検討を始めて、まだ決まっていなくても、その議論の進捗状況は、逐次、被災社会に伝えていく。そうすれば、少しは被災地の人びとの気持ちも、落ち着くのではないだろうか。。こういう話をすれば、本当に一時的に避難すべき人も、現在の「避難場所」を後にしやすくなるかもしれないし、「避難場所」を運営管理している災害時リーダーの人たちも、すこしだけテンションを緩めることができるんじゃないかなと思った。

家をなくす、生業の基盤をなくす、人間関係の基盤をなくす、というのは、ほんとうにたまらないものだ。わたしは、程度の差こそあれ、このすべてを全部経験したから、今、被災地にいる人びとが直面している苦しみを、少しだけわかってあげることができる(んじゃないかなと思う)。しばらくは、なくしてしまったもののことばかり考えて、空っぽになってしまうからだ。現実的に考えて、わたしが今までの自分のアカデミックな経験を、今回の災害に際して社会的に貢献というのか還元する機会はないと思う。そういう場を、今のわたしはもたないからだ。でも、一個人としては、できることはあると思う。そう思いたい。北国の春は遅くやってきて、夏も短いのだろう。でも、その短い春と夏の間に合わせて咲くような花を、被災地に送ってあげたい。種を播いてもよい。木を植えてもよい。毛布とかミネラルウォーターばかりでなく、いい匂いの石鹸や保湿クリーム、きれいな刺繍をした巾着や爪切りや綿棒。そういうのを欲しいなと思っている人がいるんじゃないかなと思って、後方支援活動をするしか、わたしにはできないなあと思っている。なにしろ、自分の生活が崖っぷちなのだから。東北の人と一緒にがんばっていくしかない。

_ 行政もいっぱいいっぱいで、なかなか手が回らないのだろうし、被災者へのボランティアだけでなく、本当は行政を助けるボランティアも必要なのだけど、まだその段階まで到達していないのだと思う。だから、疎開する人と避難所に残る人の間の心の調整ができなくなってしまっている。本来、今すぐにでも「疎開」すべき状況にある人(高齢者、妊婦、乳幼児がいる人、その他どんな事情であれ、その被災者自身が別の場所に行く必要があると感じている場合)は、なんの後ろ髪も引かれずに、直ちに心と体を休めることのできる場所へ「避難」すべきなのだけれど。これを書いているのは、今朝の朝日新聞のウェブ版の記事を読んでのこと。一旦、避難所を出たら、もうここへ戻ってくるなと言われることもあって、厳しい状況だけど、なかなか「避難」できない人もいるという内容だった。こういう社会的二次災害が発生する可能性があることは、神戸での震災の時もあったはずで、少しは経験の蓄積はあったのではないかと思う。でも、今度の場合は神戸の経験が生かせる部分とそうでない部分がかなりある。ひとつは、都会と地方というコミュニティの背景の違い。地方の農村や漁村の地縁社会にしっかりと根ざした社会関係のあり方が、よく機能する場合もあれば、そうでない場合もある。そういう背景を熟知したような、たとえば社会学者だとか文化人類学者とかが、過度に同情しすぎない距離をしっかりと保ったところから、コミュニティの社会的復興に向けて助言できるような環境にあればよいのだろうけれどと思う。ああ、ほんとうにどうしたらよいんだろうか。。

まだ確かな被災状況がはっきりしない中、救援・支援ボランティアでさえスポット的にしか現地で活動ができない状況下では、もうそろそろ考えていかなければならない部分が、いっぱいいっぱいになって、疲弊してきていると思う。避難している人の精神的ケアはもちろん必要なのだが、行政や心理ケアとは別の視点からかれらにコミットする人が必要になってきている。そして、日本人であろうがなかろうが、地方行政をサポートする人員。公務員の被災者の人たちも、もう限界をとうに越えてしまっているのではないかと思う。

この苦境を一緒に乗り越えようというのが、巨大エネルギーになってうまく行く場合もあれば、一旦、メンバーそれぞれが落ち着いてから再結集してがんばろうという方向がよい場合もある。むずかしいなあ。

わたしがこの問題を調整するコミッティのメンバーだったとしたら、まず考えるのは、有無を言わさず、もっと安全で快適な場所に移住すべき人を、ひとまず避難させることだと思う。それから、災害時一心同体に強く執着してしまうような状況下にある人たちと話をして、誰一人欠けるなというしんどい気持ちをうまくほぐすことだろうなと思う。誰一人、後ろめたく思う必要はないのだから。ほんとうは。

こういうニュースが一番、突き刺さる。

 


27-03-2016 / Sunday

_ イースター休暇とミッドターム休暇で子どもの学校は1週間休みだった。ところがあいにく、休暇直前に、雨の中、強行された遠足がたたり、子どもは休暇中、ほとんど風邪で寝込んでいた。そのような訳で、あちらこちらで催された卵狩りにも行かず、むーっと顔で過ごした子ども。わたしも子どもに付き添って、ほとんどどこへも行かず、退屈といえば退屈だったけれど、のんびりできた。

フリンの話題がとても多い。しかしフリンって結局、当事者以外の一体誰が迷惑を被るというのだろうか。当事者の範囲をいかにするかで、公人と私人とでは違ってくるのだろうか。誰と誰が何をしようが関係じゃないかと言おうものなら、テレビに出て鹿爪らしい顔つきで偉そうなことを話しているのに裏切りだとか、企業イメージを著しく損なったとか、信頼性がなくなったからだとか、そういう議論になってしまう。しかしそもそも、テレビで知っているだけで個人的には知り合いではない人に対して、何をどんなふうに信頼していたのだろうか…、なんて、ちょっと斜に構えてみたくなるほど、次々とえらいことになっている。なぜ糾弾されねばならぬかについてはわかるんだけど、仕事を休業に追い込まれるほどになったり、一億総クレーマー的にあれこれ暴露されるとなると、どうなんだろうかと思ったりもする。やや、危ない、危ない、わたしもこんなところでこんなこと書いていたりして、なんだか毒されているのかもしれぬ。。

小学6年生のとき、わたしは2組だった。1組のセンセイと3組のセンセイが駆け落ちしたのは卒業式のあとのことだったそう。二人とも既婚者だった。そのことをわたしが知ったのはおおよそ中学2年生になろうとする頃だから、ずいぶんたってからのことだった。そのとき思ったのは、センセイも人間なんだなあということだったと思う。とても魅力的なふたりだったから、そういう感想を持ったのかもしれない。

普段、こんなこと書いたりしないのだけど、今日は書いたのは、直近の話題の人をめぐって、友だちや知り合いと称する人々が、「うわさは聞いていた」とか「ニクショクだと思った」とかあれこれここぞと発言しているのを、ついついわたしもインターネットでみちゃって、うんざりとしたからである。そんなこと、ほっといてあげたらどうなんだと、もし発言権がわたしにもあったとすれば、そう言いたいと思ったのである。でも、別にわたし自身は話題の人に別段、思い入れがあるとかなんとかそういうことも一切ない。アグレッシブに生きることはよいことだと思うだけである。以上、おわり。


27-03-2017 / Monday

_ 某内陸国に来て、早1ヶ月半。ビザの関係ですでに2回も、隣国へ出国した。そういうのもあって、ずっとまだ地に足がついていないような感じだったのだけど、やっと長期滞在ビザ取得の目処も立って、落ち着いてきた。新しい国に来て早々に、不動産詐欺?というのか、まるで睡眠薬詐欺みたいな、あれよあれよという間にええ~っ!なんだこれは~!という目に遭った。このワタクシが?!という感じである。しかし、きっとそういう油断を衝かれたということなのだろう。わたしとしては、自力で解決できるはずの小さな問題だったのだけど、善意ある他人(だったのか、一味だったのか、もはや不明)が入れ替わり立ち代わり登場し、気がつけば大枚を巻き上げられていたという始末。この出来事が到着後一週間以内に起きたということもあって、ビギナーズバッドラックだったと今はもう落ち着きました。。こういうことって、あるんだな~。

今のアパートは、そういうこともあって、鉄壁な安全さを保つところを選んだ。一階に銀行があるというアパートで、だからかえって危ないんじゃないかという話もありますが、とにもかくにも24時間体制で誰かが見張っていて、知らない人には極めて入りにくいエントランスのあるところである。前のアパートのような、24時間窓を開けっ放しにしていてもオッケーなところと同様、安全性はとても高い。前と違って今度は掃除も洗濯もアパートのメイドさんがしてくれる。これも良し悪しなのだけど、なんとか今のところはうまく行っている。ような気がする。

それ以外の生活では、子どもも楽しげに新しい環境に順応している。ように見える。今のところは。わたしも子どもも、なんでも適当にやっていけるので、ずっと某国の延長線上のような生活を送っている。夫は仕事もあるし、どうせ一年間だけだということもあって、同行せず。

それにしても、新しい国は、とにもかくにも物価が高い。本当に高い。だって、大学の学食でさえ、某国の2倍もするのである。某国だったら、ヘタしたら、100円以下でもたらふく食べられるというのに、こちらでは飲み物も買えない。わたしはなんとかの一つ覚えみたいにお昼はずっとおなじものを食べている。学食で食べないときは、家から持ってきたお弁当である。最初、こちらの物価についての説明を受けたとき、「基準値である卵の市場価格を見て見ると・・・」ということばがあった。はあ、卵が基準値?と思わず、ほんとかな~と大いに疑ったのであるが、実際に卵はものすごく高く、市場経済のひとつの指標になっていることもわかった。日本とほとんど同じかそれ以上に高い。10個入りパックが250円である!なんて高いんだ!と、卵はほんの一例で、それ以外のものもうそのように高い。高すぎて、みんな自分の国ではなくて、もっと安くで買える隣国へ行くぐらいなのである。一体全体、どうなっているんだ!と、買い物をするたびに思う。

新しい友だち、凸凹大学時代からの先輩後輩知人たちも少なからぬ人数がいて、みんなに助けてもらいながら、なんとかやっています。アパートのWi-Fiがもう少し早ければなあ・・・ということが不満なくらいで、今のところはなんとかがんばっている。昨日は映画館で「美女と野獣」の実写版を見てきた。なにがおかしいって、映画鑑賞料二人分の値段が、ポップコーンMサイズ一箱と同じ値段だということ。。これに飲み物を二人分つけた日には、2千円を超えてしまうのです。なんて高いんだ~。それで映画は、アニメーション版にとても忠実に作ってあって、よかったと思います。音楽も同じだし。ガストンの意地悪さというか、そういうところもマイルドで、別に上映中止するほどの何かを示唆するような意図も感じられなかったし、いい映画だと思った。でももう少し、ベルのちょっと他の人とは違っているんだよというところを押し出してもよかったような気がする。という映画を見て、夜道を歩いて帰りながら、ああ、ここでの生活にやっと慣れてきたんだなと思った月曜日の朝でした。


«前の日(03-26) 最新 次の日(03-28)» 追記
2002|05|09|10|11|
2003|02|03|04|05|06|08|09|10|11|12|
2004|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2005|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|06|07|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|05|
2019|01|03|04|
2020|01|