_ 昨日の帰り道に豆屋さんで、コーヒー豆を挽いてもらう。酸味のある味が好きではないので、どちらかというと深炒りの豆を細かく挽いてもらって飲むことが多い。牛乳や豆乳を入れて飲むことがほとんど。ドリップの仕方も自分の好みのペースで、少しずつ落とすのが好き…なのですが、昨日の豆屋さんではえらく非難されてしまった。いわく、細かく挽きすぎると風味が飛ぶ、とか。素人にはゆっくりと蒸らすことが難しいから、せっかくの豆のよさが十分に引きだせないのはもったいない…とのこと。ううーん。そなのかな。たまには専門家のいうことに耳を傾けるというのは大事だとは思うので、そうですか、と聞いておいて、イタリアンローストの方は細かく挽いてもらって、フレンチロースト(味の違いって微妙なのだけど)は仰るように挽いてもらった。味比べをしなければ。
_ 不思議な色のスターチスを買う。初めて見た色。夕焼け色とでも名付けたいような雰囲気である。スターチスは放っておいても自分からドライフラワーになってくれるところがよい。
_ ノートパソコン到着。かる〜い。なんにもインストールできないので、速いのか遅いのかよくわからないので、ゲームをしてみた。なんだかはまりそうになったので、すぐ止める。で、速いのか遅いのかは不明である。
_ ぜんぜん様子がわからないので、とりあえず、レジュメをプリントアウトしてもらった。pptを実際に使うのは次回以降だろう。
_ 金井美恵子の『恋愛太平記』を再読中。やっぱり、面白い。前は全員の気持ちがよくわかったのだけど、今はどういうわけか玉枝さん(母)に入れ込んでいる。お父さんのプレゼンスが低すぎることにも改めて気がつく。金井美恵子が姉妹だからこそ書けた小説といっては、だめか。姉妹っていいなと思う。
_ うそのように寒い日だった。というのに、わたしは四時半起きで仕事に行ったので、どうせ昼にはぬくなるやろーと、軽装で山の辺へ。寒さのあまり、眠気が押し寄せてきて、危うく、遭難しかけた。
①なにかの暗号みたいに長かったメールアドレスを、無事に短く、覚えられるものに変更できた。
②ともだちに、自分の携帯の番号をちゃんと伝えられた→プロフィールというページ?コーナー?があるのを発見。
_ 最近、朝日新聞に、内田先生がよく登場されるなあ。
朝日新聞、4月1日から変わったということになっているが、年々、つまらなさ度が上昇している。インターネットのサイト、無料ではあるが登録しないと読めない仕掛けも導入されている。なんだこれは。
_ 某大学の事件。うーむ、大学を留年するということ、あるいは学生を留年させるということは、いったいどんな意味をもつことなのだろうかと考えたり。不幸な事件だと思う。学生さんにとって。
_ 身辺整理。
_ 話題の「考える人」の今月号。表紙写真の本棚にある山田稔の本は、全部、うちにあるなあとか思うだけで、中身はまだ読んでいない。山田先生のところだけ、読んだ。わたしはサマセット=モームが好きなんです。だからシンガポールが好きだと言って憚らないのであるが(ラッフルズ・ホテルには一度泊まってみたいと思ってるんだけど、嘘みたいに宿泊費が高い)、これは菊池寛が好きだと言っているのとおなじなのだろうか。大衆小説好きなのかなということ。菊池寛と芥川龍之介の友情を考えるだに、サマセット=モームの友だちは誰だったのだろうと考える。勝手にゴーギャンと信じ込んでいたが、小説の題材として登場させた以上に、交友関係はない。教養小説が好きなのかなあと自問したり。好きなのだろうと思う。井上靖とか、好きだものなあ。赤毛のアンも、秘密の花園も、教養小説ですね。トム・ソーヤーも、ほとんど暗記するほどに毎日読んでいたわたしである。なぜ、キリスト教に改宗しなかったのか、謎なくらいに、教訓小説も好きだった。だから今でも、教訓を垂れるのが好きなのかどうかは別として、今はなにも起こらない小説(by 山田稔)しか読まなくなった。なのに、昨今の小説は一切読まず、読まず嫌いも甚だしい。テレビに出ている人がだれだかわからなくなってから、テレビはNHKしか見なくなった。小説を書いている人がだれだかわからなくなってからは、週刊文春しか読まなくなった。ある意味、わかりやすい。好きな短編集:川端康成「掌の小説」、サリンジャー「フラニーとゾーイー」、シュティフター「石さまざま」、内田百閒「長春香」(小説じゃないけど)、志賀直哉「小僧の神様」が入っていればなんでも。フラニーは、永遠のthe Book。
_ ちっちゃな同窓会だったけれど、参加者それぞれに印象的なひと時だったという記憶を残したようで、思いがけず、感想やお礼を交換するような状態が続いている。十人十色とはいうけれど、誰一人として、似たような人生を歩んでいる人がいないということもまた特筆されるかも。既婚者は全員国際結婚経験者という共通項は、それ以外になんの意味を持たないということ、まだ結婚していない人たちも、別にコンカツに忙しいわけでもなく、それぞれの親世代も要介護であったり病気がちであったりということはあっても、みなほんとうにそれぞれの道を進んでいた。ゆったりとした時間を共有することで、ほんのひと時ではあったけれど、よい思い出になった。集まった人がみんな子どもをかわいがってくれて、好きになってくれたことが、わたしには一番うれしかった。耳が聞こえていても聞こえていなくても、発達障害があってもなくても、この人たちはたぶん、お母さんに何かあったときには、あんたのことを心配してくれる人たちだよ、と話した。子どもは昨日もまだご機嫌な様子で、いつも以上に明るい顔をして、足元にまとわりついて離れなかった。また、お外に行こう。