_ 小倉千加子の『「赤毛のアン」の秘密』(岩波書店)を読む。なぜか後味悪し。いろいろ思うところはあるのだが、文学って、そんなに「解釈」されねばならぬものかね?というのが、率直な感想。解釈というよりも、むしろ、分析か。いかに私が文学を理解していないかという証左となるかもしれないが、そんなことを思いました。そういう読み物がきらいだとか、存在をみとめないとかいうことではない。この本が、あまり私の趣味ではなかったということなだけである。しかも、そもそも、小倉千加子は文学としては、『赤毛のアン』を読んでいないということなのかもしれないし。
あといろいろ思うところがあるのだけど、小倉千加子がフェミニストだということを知っているので、そういう書き方になるよな…と思ったこととか。
_ 数週間ほど前に、とてもツボにはまる日記…?なのか日誌…?なのか、とにかくそのようなものを見つけてしまい、幸いなことに過去ログがたくさんではなかったので、全部読んでしまった。内容は。これが説明しづらいのだが、どうも私にはちんぷんかんぶんの事象に関する記録なのだと思われる。日本語で書かれているのだけど、半分以上、なんのことかさっぱりわからないのであるにもかかわらず、ツボにはまっているとはどういうことなのか。個人的には、文体に引かれているのだと思っている。なかなかに素敵な文体なのである。わかる人にはわかるように書かれているであろう、その文体から垣間見える書き手の人が、ものすごく魅力的なのである。という感想を持つためには、私の方でも相当に妄想を働かせて読んでいるということが言える。なにしろ、ところどころに書かれている感想や雑感めいたことしか、私にはわからないのだから。その辛うじてわかる部分が、強烈に私に訴えかけるのである。それなのに、書いている人に妙な愛情を覚えている今日このごろです。これって、まずいことなのだろうか?
しかしまず、なんのことについて書かれているのか、がんばって「分析」してみよう!
_ やっぱり土曜日になって、月曜日が近づくにつれ、いやな気持ちになってくる。これ、登校拒否(笑)。例のごとく、準備もしていない。
_ セメスター制って、一番、誰が得をするのかしら。単なる疑問だけど、結構、考えてみる意義がありそうだ。
_ 近所の図書館に出かけたところ、CDコーナーが充実していたので、ちょっと借りてみた。ナルシソ・イエペスがリュートでバッハを演奏するCDと、チェコのピアニスト、ヤナーチェクのCD。どちらも静か。よい。
_ バイクで走るのが楽しくて楽しくて、週末はほとんどバイクに乗りっぱなしの生活。景色を見ることができるスピードは、時速30kmくらいまで。いや、20kmか。わたしみたいに70kmで走ると、景色は色の塊となり、どんどんと左右に流れる。前に続く道をひたすらにらみつけながら走ることの何が楽しいのかといえば、上手く説明できない。次の瞬間、どこかへ放り出されてしまうかもしれないことを考えながら、一定の速度を維持させていることの達成感めいたものなのか。給油のあとジュース飲みながら座っていると、バイクの振動が体中に残っているのを感じたりする。夕日に向かって走るのと、夕日に染まる雲の塊を目指して走るのと、朝の冷たい空気をかき分けて走るのと。丘の向こうに海が見える場所。遠くにかすかに見える寺院を目指して走る道。どこかへ行きたいのだけど、どこにも目的の場所はない。その苛立ちがスピード狂にさせるのか。初めてとおる道は、少し、緊張する。どこに穴が空いているのか、どこにカーブがあって、どこに坂道があるのか。直感だけで走り抜ける山越えの道。直角に下りていくような道を進むときは、それでも下から上ってきてすれ違う他のバイクに励まされる。上らざるを得ない道、下らざるを得ない道がある。オレンジ色の電球がすっかりと灯された頃に戻ってくると、急に力が抜けて、ほっとする。楽しいと思い込みながら走っているのだけど、全身で緊張しているのだよなとも思ったり。道ばたの埃っぽい食堂で、ダンプカーの振動で揺れる紅茶カップの表面を凝視しながら、いつからそこにあるのかもわからないようなチキンを囓る。休息のために下りてきた十数人の砂利取り作業員の人たちの視線を独占しながら思うのは、いや、わたしなんかほんとのこの国の生活のことなんて、ちっとも知らないのだよな、ほんとのところ、ということ。なにも知らない、わかってなどいないということを感じるために、バイクに乗るのかもしれない。