ようやく生活基盤が整ったので、日記も定期的に書けそう。それでリズムが作っていけたりするだろうか?
定期券を落とした。でも、ちょうど昨日、切れたところだったので、不幸中の幸いというべきか。今日の『クローズアップ現代』を食い入るように見てしまった。日本家屋、古民家というのは、私がずっと住み慣れてきた環境なので、改めてその住みやすさ−慣れないとなかなかたいへんなのだけど−を実感した。畳の上でごろりと転がる気持ちよさといったらない。
_ 勘違いのツボにはまると、見えているはずのものもみえなくなる。気がついてよかった。
雨、止まないのかなあ。夏からずっと外しそびれていた簾が、風に揺らされて、窓にかちかちと当たる。この冬、もっとも「冬らしい」一日だったような気もして、そんなに悪い気分ではなかった。でも外に出るのはものすごく寒そうだ。足下が悪いので、長いコートを着ていくのがためらわれるが、寒がりなので、いたしかたなし。使い捨てカイロとかって、家にあったかなー、とがさごそと捜索するも発見できなかった。ひょっとすると、月末には桜が咲いていたりするのかもしれないというのが嘘のようなかんじ。
_ 今朝方の夢。鏡のようにつるりと、しんと静まりかえった水面(思うに巨大な池か海)に、木がたくさん生えている。そこを舟みたいなもので通過していく。なにかの競技場のように階段席になっているソバ屋で、名前を知らない温かい麺類を食べている。スープに使われているのは牛の足だという説明が外国語でなされる。この夢はいったいどういうことを意味するのだろうか。緑色と水色の夢。
_ 恐れていたとおり、夜の間の強い風で、簾が窓枠から外れて、屋根に落ちていた。そのまま吹き飛ばされたとしても、隣家の庭へ滑り落ちるとか、家の前を歩きすぎる人に当たるはずはないのだけど、万が一、ということもあるかなと心配になる。にもかかわらず、放置したまま外出して、戻ってきてから屋根に上って取り込む。簾の季語はやはり夏なのだろうか?それにしても、部屋の深いところまでに差し込む、冬の西日を遮ろうとすると、簾はちょうどよいかんじに日光を和らげる。しかし見た目としては、冬の景色には確かに似合わないかもしれない。
斎藤美奈子編著の新著。ううーん。切れ味が鈍い。本としては、批評・対象となる本が、かなり重複しているのがやはり気になった。「L文学とは女性は元気にする文学」という帯のようなことばが表紙に書かれているのだけど、これが日本の出版事情の中でどんな位置付けを確保してきたのか、男性からはどのように読まれてきたのか、とか読み終えての疑問が多い本だった。瀬戸内寂聴、与謝野晶子は、有吉佐和子、宮尾登美子は「乙女」の範疇には入れないのだろうか(無理かな…とか思いつつ)?尾崎翠は入れて欲しいのだけど。
こういった方々を入れて欲しいわけではないのだが、「女流文学」というカテゴリーと並べてどうなのか、という分析があったらもっと説得力があったかもしれないな、などと思った。
_ 今朝の夢。四畳半くらいの白い壁の部屋で目が覚めた。部屋の内部は、階段部屋のように、斜めにあがっていく階段が見える。階段の下から覗いている感じ。その部屋は、大きなアーケードのある商店街?ショッピングモールの中にある避暑地ホテル・ペンション街の一画にある。通り過ぎる人は、私もだれも、ローラースケートで移動している。外国人ばかりだが、私は、その何語ともわからないことばをどうやら理解している風情。
_ お天気はよいが、冷たい。この季節になると、室内の方が外の気温よりも低くなったりする。
部屋の片づけをしないといけないのだけど、なかなか動けず。しないといけないことが盛りだくさんなのだけど、そう思うとますます動けず。お茶も飲まずに一日中、座り尽くしていたりした。気持ちをもり立てるための動機付けというのは、じっとしていてもある日突然降ってわいてくるはずなどないのだ。経験的にわかっていても、それを待ち続けるというのは、学習していないからなのだろうか?
_ 昨日の夕方のテレビで、外国語を話す人びとが、みなで松尾芭蕉の『奥の細道』紀行をする番組を見る。季語が国によってかならずしも明確に存在するわけではないため、外国で俳句を理解しようとする人にとっての共通の技法は、「ハイク・モーメント」を感じるがどうかなのだという。つまり、ホメロスみたいに、時間的に長い詩の対極的位置付けとして、その瞬間の自然に感じる「俳句的瞬間」を短いことばに置き換えるのだという。外国の方が作った俳句をいくつか日本語的に訳していたのをみたが、やはり、季語というのは大事なのかな、と俳人でもなんでもないくせに、思ったりした。かといって、私に俳句が詠めるわけでもなんでもないのだ。
_ うちの母は、「みんなが高校に行くからという理由で行くくらいならば、やめなはれ」と通告するようなタイプの人である。どちらかというと怖い。なのだけど、私が生まれてすぐくらいから、ずっと絵本付きのおはなしレコードを聴かせ続けるという繊細な教育に関心をもっていたこともあるようで、このことは、私にとってはものすごくありがたいことであった。とにかく一度聴いた音はすぐに覚えるようになった。絶対音感というものが備わっているわけではないのだが、聴いた音をそのまま鍵盤に落とせる。また、その時にきいていたおはなしの内容はさておき、そのミュージカル仕立ての曲と歌詞はほとんど今でも覚えている。
♪ふさふさふさ、たてがみー/あれはひとのものー/きれいな毛皮もー/あれは人のものー/
あーるのはちいさなー/ぶたのしっぽ/ぶたのしっぽぉ、おぅ、おぅ…
という『三匹の子豚』の歌がとても好きだった。うちにもまだLPが残っているのだけど、絵本がもうぼろぼろになってしまって見つからない。もし手にはいるのであれば、ほんとうに欲しいなと思う。親子で歌えるようにと、かなり高度なピアノ楽譜が残っているので、ときどき弾いてみたりもするのだけど、絵本が読みたいな、と思う。恵文社をのぞけば、見つかるのだろうか?
_ きっちょむさんとか桃太郎、浦島太郎という日本昔話の古典から、シンデレラ、みにくいアヒルの子、イワンのばか、などもあった。個人的にはイワンのばかの歌がものすごく好きだった。
♪イワーン/イワーン/イワンが笑うー/ばーかのイワンがにっこり笑うー
というもの。
_ MDを買う方がいいか、CDプレーヤーの方がいいか、随分悩む。自分が音楽を聴くときは、なにかをしながらということはあまりない。なので、どちらにしても目的は語学の練習のために、と位置付けている。待ち時間や移動のときには、今までは本を読むことしか選択肢になかった。ここに、語学の勉強というものを加えたい。今はNHKの語学テキストもCD付きになっているから、それを考えるとCDプレーヤーの方がちょっと安いし、気持ちは傾く。が、よりコンパクトで、今の自分のステレオに接続しやすいと言う点ではMDなのかな。迷う。
_ 携帯電話も買わないとと思っていろいろみていても、もう私には理解できない。。。たいへんな世の中になっているのだな、ということはわかった。電話はもう、自宅に設置する固定電話だけでいいか、と思った。携帯がなくて困るのは私ではなく、私に連絡を取りたい携帯を持っている人なのだ。たぶん、私が困ることはあまりないとも思われる。私の身の回りでも、携帯電話を持っている人の方が少ないから。でもこれだとやっぱりだめなのかな。。。
_ バス停で、この頃流行の小型犬を「懐」に入れている人を、続けてふたりも見た。今、こういうふうにするのが流行っているのだろうか?一瞬、ぬいぐるみを抱いているのかと思ったくらいに、愛らしい顔が覗いていたので、ぎくっとしてしまった。犬は歩きたいなどと思わないのだろうか。
_ 寒いなー、遠くの山は頂上のあたりが真っ白だなー、と思いつつ、半袖のセーターとスカートで出勤。間違った。とはいえ、それほどに風は冷たい感じではなく、首元をマフラーで防御していると、大丈夫な感じがした。お昼はあまり食べたいものがなかったのに、タラコスパゲティ(大盛り)というのを頼んだのも、考えてみれば矛盾した。ところが落とし穴があって、スパゲティの量は1.5倍なのだけど、タラコペーストの量はそのままだったこと。ううん。食べた気がしなかった。
_ 同行者のみなさんの勧めもあって、タラコスパゲティにシソドレッシングとタバスコをかけてみた。味がついた分、食べ物になった感じがした。良心的なパスタ屋さんは、大盛りでも普通サイズでも、お値段がおなじだったりする。女子のみんなも女子同士だと大盛りを食べることがあるが、男子が一緒だと普通サイズにしてしまって、後から後悔することがままある。そういう話を食券を買うレジの前でしていたら、キャッシャーのお姉さんが突然、「わかるわよー。でも大盛りっていっても、1.5倍しかないから、私でもぺろりとたべられるわよー。ものすごくよくわかるわよー」と力説してくださった。大盛りを食べる女子が少ないから弁護に回ってくださったのか、共感してくださったのかわからないけど、やはり自分一人だったら普通サイズを食べて、いかにも普通の女子的に振る舞うような気がしないでもなかった。
_ 夕方、小雪が舞い散る中を歩く。とても気持ちがよかった。コートの中はほかほかと温かく、顔に当たる雪はひやりと冷たい。午後5時を過ぎてもまだ明るくて、春が近いのだな、とうれしい。
_ 花粉が多い。花粉症ではないのだけど、飛散度が高い日は、少しだけ反応するようだ。目がかゆくなる。私が反応するような日は、花粉症の人だともっと反応するようで、今日はあちらこちらでくしゃみの声を聞く。
昨日の夢は、黒板に書き物をしている夢。内容はほとんど覚えていないのだが、私は滔々と話している。誰かになにかを説明している風情。
_ 巴旦杏はアーモンドのことだという。ことばの響きにリズムがあって、昔から好きなことばだったのだけど、意味を知ったのはわりと最近のこと。バラ科の樹木なので、今の季節になると、桜と見間違えるような花を咲かせる。枝のつき方が、少しだけ桜とは違う。幹から、どちらかというと鋭角気味に、上に伸びるようについている。よくみると、花の色も、少しだけ濃いめのうす桃色。
美人を形容することばは、地域や言語によってずいぶんと違う。「巴旦杏」ということばをしったのは、たぶん、中国の児童文学を読んだときで、「巴旦杏のような瞳」の女の子が登場するもの。これはなんだろうと思いながら、随分と長い間、調べないでいた。中国の果物なのだろうなあ、などと思いつつ。アーモンド型の目が美人の形容詞になっているのは、中国だけなのかなあ。桜の花がもう咲いているのを見て、これはアーモンドなのかな、もしかして…などと思ってみた。
_ 退官講演の隙間を縫って、お昼ご飯はたこのスバゲティ・アラビアータ。ものすごくおいしかった。たこがぷるぷると歯ごたえよく、ソースとの相性がとてもよい。ものすごく満足して食べていたら、横に座った男性が(断りもなく)、ものすごく匂いの強い煙草を吸い始めた。。。そそくさと食べてしまったのが残念。
食後のコーヒーは、このお店に限る。ほんとうにおいしい、牛乳もお砂糖も、何も入れなくても深い味わいがすーっと口中に広がるのが、麻薬的なおいしさ。コーヒーは昔、薬の代用品だったというが、ほんとうにそうだったのだろうな、と思わせる味。喫茶店でも、この味わいは、ちょっとなかなか、お目にかかれないように思う。
今日も暖かくて、とても気持ちのよい日。
_ 女の人は化粧をするかどうかで随分と見た感じが異なるものだが、男の人はスーツを着ているかどうかで随分と印象が変わるのだな、と思った。ただし、日頃、スーツを着ていない人に対してそう思うことが多いように思ったりした。上下揃いではなく、別々の組み合わせで上手に着こなしている人をみると、ついついほれぼれとして見入ってしまうこともあるが、それは日頃スーツな人びとを見る機会が少ないからなのかもしれない。日頃、もしかすると寝間着かな、とおもう服装の御仁が、今日はカジュアルとオフィシャルの境目の、上手な着こなしをしているのを見て、ものすごく目に鮮やかな印象を受けた。今日は全体に、みながダーク系のおしゃれをしている中で、俄然、さわやか系に見えたので、ついつい長く話し込んだりする。もちろん、仕事の話。
_ 帰途、対イラク攻撃のデモ隊に会う。
反戦の気持ちはたしかに表明されていたと思うのだけど、誰に向かって、どうしろといっているのか、そこがちょっとわかりづらかったように見えた。日本の首相、50年以上経った国連の役割、アメリカの横暴、欧州各国の対応など、みるべきものがありすぎて、『水学会』にシラク大統領が欠席ということがニューズになったきり、報道が一挙に縮小されたことなど、ささいなことよ…というかんじなところも、また日本の報道のおかしさだな、と思ったりした。
_ ウィルスメールがよく来る。対策は練れども練れども…。
_ 職場関連でも、メールのやりとりの誤読合戦が続いたので戦列を離れると、また呼び戻される。ついていないときは、ほんとうについていない。こだわるべきポイントを間違っているのではないだろうか、もちろん双方が、ということ。
_ ずっと昔から探していたCDを見つける。狂喜乱舞というのはこういうことなのでしょうか。なぜみつからなかったかというと、それは私がそのミュージシャンの名前のスペリングを間違っていたからだった。いやなことが続いた昨日と今日。やっと、ちょっと気持ちが晴れた。山あり、谷あり、ということなのだろうか。
_ 来客多し。昨秋からとある場所に奉職している某氏が来る。彼の勤務地は、極北の世界である。夕方、一仕事を終えて窓の外を見ると、冬場などもうとっぷりと日が暮れていて一気に悲しくなるという話を聞く。ちょっと行くのと、そこに住むというのは、やはり全然違うのだな。もともと饒舌な人なのだけど、今日はいつも以上に滑らかだった。
もうひとりの来客とは一瞬だけしか時間が取れなかったのだが、最後にあったのがいつだったか、お互いにもう思い出せないくらい昔のことであることだけ、わかった。そのときも、三人でうるさかったそうである。時間が経つのは早いのだなと改めて思った。
_ 「日本としてはイラクの戦後復興に協力したい」という発言が、どこをどうしたら出てくる構造になっているのか、わからぬ。戦争を止めさせるという考えが念頭にまったくないということだけは、わかる。こういう人だったのだ。始まってもいない戦争の、どのような戦後復興を描いているのだろう。
フレンチロースト。チャイ・ラテ。シナモン、振りかける。
夏木マリ。小島麻由美。ビル・エヴァンスの持ってなかったもの。
フレンチポップス・コンピレーション。サルサ。
百合咲きのチューリップ。
並んで買う。
ありがとうござりました。助かりました。
返品。
袖直し。
ATOK16。そしてフリーズ。
電話、ありがとう♪すごくうれしかった。
メール、ありがとう♪楽しみです。
とても感謝しています。
_ 夜遅くまで、練習に励む。なんとか合格ライン。もう一度レジュメを作り直して。
もう11時半を回ったというのに、車に乗ってラーメンを食べに連れて行ってもらって、そのまま自宅まで送らせてしまう。なんとわがままな人物なのだろうか、と笑い合いながら、たぶんこの顔ぶれでは最後のドライブとなった。夜の国道は、それでもそれなりの混み具合。私の住んでいるところがどこだかしらなかったような、某遠隔地出身のドライバーは、「いったいいつ着くのか」と不安に思いながらも、車を走らせてくれた。無事に彼らは戻ることができたのだろうか。
長い道のりだったなと、改めて思った。
_ ATOKが突然死ぬ。パニックになる。もうーっ。三回ほど入れ直して、ようやく復帰。やはり太郎さんと言語さんは、相性が悪いのか?わからん。
_ ううーん。
_ 夜、炭火焼鳥屋でシンガポールの友達のダンナ氏と御大と御飯。こんなに美味しいお店だったのかー。焼き鳥がこんなにおいしい食べ物だとは思っても見なかったので、なにか新発見をしたように感激した。スナズリとナンコツがおいしいこと、そして手羽先が気前のよい大きさだったことが、また印象的でもあった。手羽先は美味しいのに、身の部分が少ないのが残念に思われることがしばしばだったので。ダンナ氏は、ずいぶんと日本語がまた上手くなっていた。私は簡単な英語の単語も、なにやら頭の中で辞書を繰るような感じに後退。友達は相変わらず、元気にがんばっているとのこと。おいしいお料理があると、普段、おしゃべりでないダンナ氏も、とても饒舌になるようで、楽しい、うれしい時間を過ごした。感謝。
_ カードのポイントが貯まっていたのに、期限切れに気が付かなかったというミスを起こしたことがあったので、一杯になったカードを使うつもりでCDを買いに行く。いつもなら、お店のレジで、「ポイントをおつかいになりますか?」などと問われるのに、今日はなにも聞かれない。三枚買ったので、どれか一枚がただになるはずだったのに…と気が付いたのは、お店を出たあとで、自分がぼんやりしていたことにも気がつかなかったのだろうか。その割には、新しいカードと一杯になったものを、ちゃんと受け取ってお店を出ていた。
Bill Evans, Jim Hall/Undercurrent
Paul Williams/Someday Man
Rhett Miller/The Instigator
個人的には、Millerがヒット。この頃、本屋でなにかにヒットすることがすくなくなっていたけど、CD屋部門でちょっと盛り返してきた感じがする。試聴したのは、どれも知らなかった作品ばかり。Bill Evansは、ジャケットがどことなく女性ヴォーカル風だったので、彼のものだとは思わなかった。デヴィーがセールになっていた隣に並んでいなかったら、手に取ることもなかったかもしれない。デヴィーは、人にプレゼントしたりすることが多い。もう少し、気持ちを込めたいとき(ってどんなだ?)には、ビョークの「Gling Gro」を贈ったりすることがおおいので、いつもよりもちょっと買いやすくなっていると、ストックしておく。
しかし、日本製のCDは、なぜこんなにも高いのだ。輸入盤と日本盤が並んでいると、値段的には前者を選びたいが、後者にはたいていボーナストラックが入っている。となると、ものすごく悩むことになる。一曲か二曲多いだけで、場合によっては9百円くらい高いとなると、計算する意味もないのに、一曲あたり450円か…、などと弾いてしまったり。その点、本は古本屋でなければ、値段のことはまったく気にしなくてもよいので、気楽に買ってしまう。書店のカバーは、たいていもらわないことにしているのだけど、八重洲ブックセンターのカバーが好きだったのだ。花柄のもの。今もそうなのかな。
_ 半袖のセーターって、やはり中途半端か。家の中の体感温度よりも外の方が断然に暖かい。しかし、また別の室内に入れば、寒く感じる。が、電車の中は暖かいし、ううーむと考えて半袖セーターを着てきたのだけど、やはり寒かった。
_ テスト [てすと。]