_ ちょっと調べ物のため、大学二回生のときに選択していた「言語学」のテキストを引っ張り出してきた。ミシガン大学で言語学を修めた先生の英語は、一回生のときの英会話の英国式英語スピーカー先生の英語と違って、すごくソフトで滑らかで、でもわかりにくかったのはなぜだろうか。英語を聴き慣れていなかったからという理由がもちろん、一番大きな理由なんだと思うのだけど。でも細かい発音、音声学については、ものすごく勉強になった。今ではもちろん、関西弁英語スピーカーだけど、当時はミシガン大学風…かというと実は違って、やっぱり一回生の時の英国式英語スピーカー先生風の英語をしゃべっていたみたいだった。おなじクラスの約20名の生徒はもちろんのこと、全員そんなふうにしゃべっていたと思う。
他の先生がどうだかわからないけど、当時の英国式先生は、学生を呼ぶとき、かならずファミリーネームで、ミス・誰それ、とかミスター・誰それ、と呼んでいた。ミシガン大学先生は、もちろんのこと、「クラスでのニックネームをつけましょう!」な人だった。なので、先生の名前を呼ぶときも、一回生の時は、ミスター・誰それ、二回生の時は、ハーイ、マイクゥる、という感じであった。
_ どちらももちろん、ドクター・誰それ、と呼ぶのが正式だったのかもしれないけど、そんなことは、当時は頓着せず。東南アジアだと、とにかくなにかの書類に名前を書く機会があれば、かならず、Dr.誰それ、とか誰それ Ph.D. ってつければ、それはもうVIP待遇だぜ!と言われたので試してみたけど、別に「あ、ふうん」という感じでしたよ。そういうのが効果的な場所ってのがきっとあるのでしょうね。でもそういうのが効果的であるような場所を、私はたぶん、意味もなく嫌いだと思う。
意味が通じればそれでよいのだという考えがある一方、そのような状況が実現するのは、相手の多大なる寛容な態度と友好的な理解があるからこそ、という考え方もある。どちらの立場がいいとか悪いとかは、状況に応じた使い分けというのか、どちらにも対応できるようなそこそこの英語力があればそれでいいと思うのだけど、なかなか、周囲の人々が流暢な英語遣いだと、そりゃ、どうしたらいいかおろおろするわけで。The Story of English なんて読んでる暇があったら、shadowingに全力投球すべきなのかもしれない。
ちなみに、この本によると、一番古い時代の英語が話されている地域は、イギリスでもアメリカでもないそう。それがどこだったかを調べるために、読んでいるというわけです。果たして記憶違いだったら、どうしてくれよう。