_ やっと旅のメモの整理を終わらせた。レシートとか入場券とかパンフレットをノートに貼り付けて、メモ書きをして本棚へ。絵はがきばっかり買っている感、否めず。
_ 西洋人の子どもはなんとなくちいさな大人みたいな顔つきをしていて、怖いなと思っていた。温泉のある街へ向かうバスの中で、座っている私の目の前の席に乳母車に乗った1歳くらいの女の子がいた。笑っていないときは実にまじめくさった顔つきでこちらを凝視していたのだけど、ふと私が笑いかけると、それはもうかわいらしい笑顔できゃっきゃと喜んだ。そうなるとどこの世界の子どももみなかわいいもの。その女の子はお姉さんやら両親やらと新しい方の温泉に、私は古い方の温泉に入った。あの子も温泉に浸かったのかなと考えながら、案内に従って、料理されるように分刻みで茹でられたり蒸されたりした。
_ 最後にボディミルクを塗りつけて毛布にくるまれて居たときに、今でないと多分、バスに乗れないという確信を得て、ものの15分ほどで脱皮。慌てて走る。温泉の帰り、すでに猛吹雪。超特急に乗るために一旦反対方向の駅へ向かい、食糧とコーヒーを慌てて調達して、滑り込みセーフで着席。遠回りをして近道をした。下りる駅に着くと外はまだ雪。とりあえず駅構内の売店で熱いコーヒーを飲んで様子を見てからようやくあきらめて、すっかり夜の冷気が立ち込めている道を宿に向かい、俯き加減に歩いていた。歩いているうちにいつのまにか雪は止み、霧が立ちこめていた。自分の足音を聞きながら歩く。石畳の道がT字路になっているところで、ふと横を見上げた。視界一杯に、大聖堂が飛び込んでくる。塔のてっぺんは霧で霞んでみえない。その光景は圧倒的としか表現しようのないものであった。他になんといっていいのかわからない。もう少し大聖堂に近づくと、店屋の看板もなにも視界に入るものはなくなり、石畳の端を静かに流れる用水路の水音しか聞こえなくなる。時計が正時を指し、鐘が鳴った。どれくらいじっと見上げていただろうか。旅程を通じて、この時の他に今、自分は外国にいる、と強く思ったことはなかったような気がする。目を閉じても閉じなくても、あのシーンはもう正確に甦ってくる。
記憶の断片が、ノートを整理していると次から次へと掘り起こされてくる。その度にガイドブックを読み直したり、地図を広げたりして、なんども歩いた道を反芻した。誰かと一緒だったらもっと楽しかったかもしれないと思うことは、食事の旅に思ったし、タイムテーブルを読み間違って夕暮れの道を宿に向かっているときなどは、とくに思ったものだった。それでも今回の旅は楽しかった。何が楽しかったのかと聞かれれば、それは多分、私は私でありさえすれば、それでよかったからではないかと思う。なにも背伸びする必要はなく、髪の毛がぐちゃぐちゃでもずっと同じ服を着ていても、なにも気にすることなく、ただ毎日を楽しむだけでよかった。それが日本ではできないというわけではない。まだまだ楽しいことはいくらでもあるのだと思えたことが、なにしろ楽しかったのだろう。