_ 小学校上級生の女の子にとっては、容姿の問題は重要だもんなあ。。。私は背が高すぎたのが悩みだった。今時の164センチなんて、ごくごく普通の身長だろうが、当時は大きすぎた。
私が小さい時にも、小学校の飼育小屋で飼っているウサギを全部殺してしまうような人はいたし、いじめもあったし、仲間はずれもあった。『ぼくは12歳』(岡真史)が学校の図書室にあったりして、だんだんと世の中の矛盾とか複雑さに気がつくようににもなった。自分が死んだらどうなるだろう、死んだ後の世界はどんなだろうかと考えることはあったと思う。『ブラックジャック』だって、もう読んでいた。偕成社の「少女名作シリーズ」には、病気で死んでしまう薄幸の少女たちがいたものだ。死ぬことは身近なことではなかったにせよ、悲しいことなのだな、もう元には戻らないものなのだなと思ったものだった。マシューも死んでしまったし。
虫を殺すこともあった。川で捕まえてきたメダカをうっかり日向に出したままで、小さなお腹を見せて水面に浮かばせてしまうこともあった。男の子たちは、ウシガエルを踏みつけたりしていた。
毎日おなじ服を着ている女の子に「全然着替えへんねんなー」といじめる女の子がいたが、そう言われた女の子は「私はおなじ服を5枚持っているのだ」と切り返していた。「100枚のきもの」のワンダ・ペトロンスキーに憧れていた私は、こっそりとその女の子を尊敬するようになった。
でも誰かを殺そうと思ったことは、多分、一度もなかった。苦手な人がいなくなればいいのにと思うことはあったが、それは「明日、地震が起きて学校がなくなればいいのに」とか「火星人がやって来てたいへんなことになればいいのに」というのとおなじ次元のありえないことであった。どうしようもない、ということである。
_ 今回の事件は最初から殺意があったということが、きっと、問題なのだろうなあ。私が一番引っかかっているのはきっとそれだ。人を刺したら、血が流れて、もう取り返しがつかなくなるということを少しでも想像できなかったのだろうかということだと思う。自分だけの問題ではなくて、自分の両親や兄弟も巻き込む、たいへんな事態になるということである。
もちろん、いつの時代にもきっと似たようなことはあり得たと思う。これがインターネットの影響だとかなんだとかはあまり関係ないと思う。三島由紀夫の『午後の曳航』なんて、恐ろしい小説だ。子どもでも殺意は持つということを、いや、だれでも瞬間的には殺意を持つかもしれないということを具現化した小説だと思う。
_ とにかく、痛ましいなあと思った。残された家族も、それから、これから長い年月を生きていかなければならない女の子にとっても、辛い時間が流れ始めたのだなと思う。