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lost luggages ねぶくろ 書簡
--sleeping bag・g-ism/ist--

03-03-2006 / Friday [長年日記]

_ 国内便は、プロモーション価格で、いつもの半額だった。サービスも半分なのか、お弁当は、キットカットの小さいのがひとつと、カップのミネラル水、カレーパンみたいなもの(日本的カレーパンにはあらず)だった。ミネラル水が、雨水みたいな味だった。まずい、ような気がした。

_ お雛さんの日だな。昔、巴旦杏の林を通り過ぎたとき、桃の花だと思ったことがあった。どちらもバラ科サクラ属の木。季節もちょうど、今時分で、柔らかい気分がしたことを思い出す。

ばたばたとあわただしかったのも、今日でおしまい。あとはのんびり自分のしごとに専念したい。地方巡業に出かける予定。


09-03-2006 / Thursday [長年日記]

_ 出発前から、もうここに書き尽くせないくらいにわらわらと忙しかったのだが、なんとか乗り切ってきた。書斎部屋の引っ越し、先輩とふたりでこなしたり、送別会の幹事を二本しているので、留守中のその手配とかもろもろ。あと、科研の会計も3本締めてきた。気力で乗り切ってきたから、あまり疲れとか感じていなかったのが、ここに来てすごいことになった。朝起きて、ラウンジでいつものイチゴジャム・オムレツ・チーズトースト・サンドウィッチという、気持ちの悪いものを食べたあと(わたしにはおいしい)、部屋に戻ってちょっと横になった。うーん、さて活動開始、今日は大学で打ち合わせだったよな、ちゃんと襟付きの服に着替えねば…と思って、時計を見て凝固。11時を回っている。あちゃー、大急ぎで電話を掛けねばと思って、ふと窓の外を見ると、暗い。あれ、お天気が悪いのかなと思った。それでも気がつかず、準備をして外に出ようとしたら、ドアのところにメッセージメモが散乱している。ふむ?「おきてください」「受話器をちゃんともどしてください」「だいじょうぶですか?」とか。なんじゃこれ?とおもいながら、かき集めてフロントに下りると、係の人が、「どこから現れたのか?みんなキミを探していたよ」という。へえ?と、ここで知る。なんと、もう夜だったのです。一体全体、何時間、寝ていたのだろう?前代未聞の失態。当然、わたしがいないと話にならない会議は、翌日に順延されていた。えへへ。。と笑って済まされる問題かなと悩んだ末、恐る恐る事情説明の電話を(国立大学の副学長先生だよ、気安く携帯電話にかけちゃったりした、しかも電話屋から)かけたら、ちゃんと笑って済ませてもらえました。いや、しかし、すみません。ごめんなさい。とても社会人として、許されることではないよな、たとえ某国にあっても。ほんとにごめんなさいでした、みなさん。


10-03-2006 / Friday [長年日記]

_ はあ、ひとつやっとこさ、書類提出できた。毎日、ほぼ、5時間くらい、集中して翻訳蒟蒻中。わたしも実は、ようやっとのことで電子辞書を使うようになったのだけど、複数の辞書で確認する癖があるので、無線LAN環境がほんとうにありがたい。翻訳作業は、帰国の日まで続きそうなくらい、進むのが遅い。いやになっている。しかもすごい雨が降っていて、どこにも遊びに出かけられない。明日からまた地方巡業なので、今日中にもう一章、終わらせておきたいところ。ねむい。

_ 語彙がすくないなー、と痛感。colloquialな語彙ばかり。オフィシャルな語彙が少なすぎる。これではだめだ。ということで、憲法の本を読んでいる。回りくどい表現ばかりで、目が回る。


11-03-2006 / Saturday [長年日記]

_ 絶対に返事がこないはずの人に手紙を書く。冥土に飛脚を出すよりも絶望的だが、それでわたしが救われるのであれば、もうそれで許して欲しいと、わがままをとおす。旅に出ると、やっぱり手紙を書きたくなる模様。切手を選びながら、返事を妄想。


15-03-2006 / Wednesday [長年日記]

_ おかげさまで、なんとかなりました。すごく原始的に、ACアダプタのコンセント側のほうの別のコードをオフィスの人に借りて、つなげてみたら、便宜的に使えるようになりました。ずっと使っていたらやっぱりまずいのかもしれないけど。お騒がせしました。ありがとうございました。Thank you so much for your kind attention and good offices.

_ 巡業に行く前から、風邪で死にそうになっています。それでも今、オフィスに出てきて仕事をしているわけなのですが、ちょっと困っています。

この日記の数少ない貴重な読者の方のお知恵を借りねばならないのですが、ノートパソコンがACアダプターを認識しなくなってしまいました。ずっとバッテリーを食いつぶしています。どうしたらいいでしょう?

使っているのは、ThinkPadX40。今日の午後、締め切りの原稿のためのデータが全部パソコンに入っていてかつ、他のパソコンはOSが古いため、日本語が使えません。ACアダプター、認識させるためにはどうしたらいいでしょうか。あるいは壊れているかどうかはどう確かめたらよいでしょう。

コメント欄、読者の方には見えませんが、日付をクリックすると、書き込み欄が見えます。

もしパソコン関係に詳しい方がいらしたら、どうぞよろしくお願いいたします。

自分で調べるのがよいと思うのですが、今、風邪で頭が全然、働いていません。見てみたら、「放電中」となっているのですが、こんな表示、今まで見たことがないので、パニックになっています。こわれたのかな。パソコン。すみませんが、もしお時間があってかつ、教えていただける方がいらしたら、どうぞお願い申し上げます。

ねぶくろ拝


16-03-2006 / Thursday [長年日記]

_ 学長表敬訪問の日だった。30分くらいで助手の人と慌ててスライドショーを作って、こちらのプロジェクトの説明をした。末永い協力関係を確認しあう(のがMOUというらしいですな)。でも「お金がないと話にならんので、がんばって科研費を取ってくれ」とも言われる。まさに現金な話だなと思いつつ、記念写真を無事に撮影して任務完了した。

巡業からの帰り道、車の冷房にやられて、のどが痛む。

銀行に行くのがめんどくさかったので、今回はずっと近所の換金屋で両替をしていたら、随分とやっぱりレートが悪かったみたい。

「ジェンダー」に関して博論を書いている人の研究報告会に出席してみたのだけど、「女とはだれか」ということを考えたことのない人だったらしい。世の中には結婚した女と男しかいないのだ、という論調の報告。結婚しているとか、離婚したとか、若いのか年寄りなのか、貴族階級なのか奴隷階級なのかとか、某国に住んでいたら自動的に組み込まなければならない情報が一切、無視されていた。きけば本人は植民地エリートの両親のもと、首都で育った人で、地方語は話せないらしい。それだけで、その人の研究を判断するのはこれもまた間違いであるのだが、それでもなんかある意味、典型的なインテリゲンチャやなあと思わずにいられず。女の役割:生産(出産が含まれるかどうかも言及なし)、家事、近所づきあい、だそうだ。これが三本柱となって、話が進んだ。コメントを出すべきかどうか迷ったけど、ブレイクのときにちょっと触れることにした。この人、とてもよい人だけに、コメントするのがむずかしい。よい人だったら、だめな研究をしても許されるのかというとそうではないし、だからこそ、なんかコメントしたくなるのだけど、実は去年、彼女の報告を聞いたときは、わたしは結構、鋭くいろいろと指摘したことが、なんとなくトラウマになっている。なぜかわたしのトラウマ。それで遠慮しちゃったのだけど、こういう遠慮がだめなんだろうな。だって、コメントが全然反映されていないということは、ゆうてもあかんということやん…とか、煩悶しているうちに、ブレイクタイムも終わり、機を逸した。だめ。


17-03-2006 / Friday [長年日記]

_ あと、バッテリー使っているときは、「放電中」となるらしいですね。。こういうことさえ、知らないできました。へへ。

_ 朝ご飯も食べずに、まだ薄暗い中を出発して、村へ帰った。今回は長いができず、街に住んでいる若者におみやげを託してすませようと思っていたのだが、「そんなのはぜったいだめだ!」と、おばあちゃんとおじいちゃんから伝言が届いたので、出かけてきた。寝ぼけナマコのうえ、なんか全体的に膨張していて、とてもしんどかったけど、やっぱり田舎に帰ってよかったです。帰る田舎があるって、こういうことなのだなあ。

わたしは生まれも育ちも街中だし、お墓だって、ロウソクタワーが見えたり、通天閣が見えたりするところにある。それが、某国のわたしの田舎は、トイレは家の外にあるし、井戸端で洗い物とか水浴びをするし、ニワトリが放し飼い、食事時になると裏庭からバナナをもいできたり、食用の実とかを長い竿で突いて落として調達したりする。こういう暮らしをしていると、しんどいのはしんどいのだが、なんかほっとするのですよね。冷蔵庫もないから、作ったモノはその日の内に食べてしまわないといけない。そうすると、食べきれる分だけ作るし、無駄があまりない。夜は寝るだけだ。わたしにとってはものすごく贅沢な暮らしなのですが、さすがに今回は楽しむ余裕がなかった。村に帰った途端、どわーっと、片っ端から家々に帰省の挨拶をして、うちに帰ってきた。わたしの部屋はいつでもわたしが泊まれるように、開けておいてくれている。ベッドもきれい。おかあさんが食事の準備をする横で、あれこれ近況報告して、となりのばあちゃんちに挨拶にいって記念写真撮って、ごはんができたよーと呼ばれるまでおしゃべりして、ご飯食べたらもう帰る時間になった。また夏休みに…といって別れた。

街に戻って、一風呂浴びてから、すぐに役場周りをして、帰国の挨拶と来年度もよろしく云々というやりとり。この間、ずっとオフィスを借りていた某こくさいふっこうかいはつBKの友だちに感謝の印として、抹茶味の森永キャラメルを謹呈した。

歩き通しであまりに疲れたので、途中、雑貨屋で冷たいコーラを飲む。コーラって、麻薬的においしいときがあるね。

最後にmofaさんから来たメールを片付けて、もうこれで終わり。ばたばたとして毎日疲れて、すぐ寝た。3月末日でクビになるのだけど、まあ最後まできちんと仕事を終わらせることができて、なにより。明日と明後日は、某リゾート&ショッピング都市で、図書資料の買い付けをしてそれでおわりだ。4月からの予定ゼロって、すがすがしいね、とかいっておこう。

以上です。


18-03-2006 / Saturday [長年日記]

_ 土曜日の事務所は、冷房も切られていて、ちょっと暑い。。

夕べは、三四郎大学ご卒業の、絵に描いたように感じがよくて、溢れる知性がまぶしすぎるくらいにさわやかな女性と食事をともにした。一緒にいると、まるでマリア様か三蔵法師とご一緒しているように、幸せな気分になる。責任のある仕事があって、結婚していて、なにもかも充ち満ちていて、もうなんの不満もなく、不満があっても笑ってすませる余裕があり、何事にも動じず、スマート(内面・外観ともに)で、身のこなしが軽く、ああ、こんな人が世の中にはいるのだということを知ることができたのは、幸せなことだった。爪のあかなんてないだろうが、こんな風になりたいと強く思った。まずは模倣からか。

_ 朝、早々とシティ・チェックインしておいたので、ちょっと余裕ができた。前にフランス語で出版された学術書が、英語版を経て、某国語版に翻訳された。これを買ってみたのだけど、うーん、むずかしいところだ。英語版を翻訳した人は、ちゃんとした本職の研究者の人だったのだが、某国版に訳した人は、こちらのNGOの人たち。翻訳という作業を、技術的な部分だけでとらえたら、そりゃあ、人海戦術でばばーっとするのが一番よいとは思う。しかし、テクニカルタームとか、すごいことになっているからなあ。でもこれもまたひとつの研究成果のローカルへの還元だと思えば、たぶん、意義はあると思う。

_ わたし自身の去就については、すでに何度も書いたとおり、もうここで打ち止め状態に陥っていて、日曜研究者になることが決定している。それで全然いいと思っているし、わたし自身が強くそれを望んでいて、ことあるごとにアナウンスしてきたので、もう反対する人も今はいない。納得したとかそういう次元ではなく、こういう人なんだ、と思われた感が強い。でもそれもわたしが望んだことであるので、悔いはない。ただ博論を出版する前に、ほぼおなじ歴史的文献を使っていながら、西欧の研究者の人に先を越されて出版されてしまったことがちょっと残念だったかな。この資料、特定の出自の人しか持っていないものだったので、見つけたときは、うはうはしたものであるが、解読に時間がかかり過ぎちゃって、先を越された。でも日本人でこの資料を持っているのはわたしだけなので、ちゃんと整理した暁には凸凹大附属図書館に寄贈しておこうと思う。それくらいわりと意味のある資料みたいです、西洋での扱いを見ていると。

_ 今日の午後、某国へ出国して、明日、別の某国。ここで某先生最終講義用のきれいなお洋服を買えたらいいな、と思っている。買えなかったら、悲惨な服を着ていくよりほかなし。

いろいろと行事とか、研究小屋の引っ越しとか目白押しで、4月からの講義の準備が全然できていない。インフルエンザもまだ快癒しておらず、なんかもう日頃のおこないの悪い人は、ほんとにたいへんだなと思う。禅寺とかに入った方がええのだろうか。出家したら、もうすこし、よい人間になれるだろうか。わからない。すべてなにもかも、わたしにはわからない。


20-03-2006 / Monday [長年日記]

_ そういえば、華人集団と話していてなぜかまたラオスへ行こうという話で盛り上がった。なぜなのだろう?なにがラオスに駆り立てるのか、またしてもわからないままに酩酊してしまった。50度の自家醸造のお酒をみんなで飲んだのだけど、これは薬なのだとか。だから二日酔いしないと言われて飲んだものの、たいへんなことになった。まさに薬のアルコールの味がするお酒と、味のないウォッカみたいなのと混ぜて飲んだ。ちゃんと歩くことができたし、気分も悪くなかったけれど、昼間のことがあったので、タクシーで送ってもらったら、もう気分が悪いの悪くないのって。あまりの気分の悪さに、ホテルに帰ってしばらくソファに沈む。ベッドで横になるのが不安になるほどだった。落ち着いてからホテルの隣の711にミネラル水を買いに行き、湯船に浸かりながら水分補給しようと思ったら、なんと水しかでないお風呂だった。このホテルは、部屋によってクオリティが極端に異なる。震えながら、コイル式湯沸かしでお湯をわかして、洗面台にお湯を張って蒸しタオルを作ってしのぐ。そうこうしているうちに酔いも収まる。翌日、慌てなくて済むようにパッキングして着替えを出して寝たのがまたしても2時。起きたのが4時半。眠さも峠を越してしまった今、またしても夜更かし中。なんだかこれではだめな気がする。

_ 夜、久しぶりに伝統音楽の生演奏を聴いた。といっても、偶然、歩いていた道沿いの集会所での練習風景に遭遇したのだった。端っこに椅子を出してもらって、静かに聴く。いろいろと迫り来るものがあり、目頭が滲んできたかもしれなかった。随分、熱心に聴いていたらしい。あとで、団長さんが挨拶に来られた。放心していたみたい。音楽を聴いて、魂を奪われたのは、かなり久しぶりのことだった。人の心に訴える音楽って、確かにありますね。ホテルに帰ってからも、夜、眠れなくなる。仕方がなく、テラスで、カモミール茶を飲みながら、日誌整理。夜になると寒い。寝たのはもう2時前だったかな。眠いのだけど、音楽がずっと頭の中で鳴り続けていた。

朝、4時に起きて、水浴びして、空港へ。寒い。かばんから襟巻きを出して巻く。暖かい飲み物を飲もうと思ったのだが、コーヒー一杯、千円也、とある。ポケットに両手を突っ込み、ベンチに横になる。昔はホテル代を惜しんで、よく空港の玄関で寝た。今思えば、トランジットのマニラの空港が一番、怖かった。。ほんとーに、怖かった。なのに、眠れたのはなぜだったのか。マニラなど、もう何百年も行っていない。今も怖いのかな。最近、全然、こういう経験なかったなと思いながら、ほんとに寝てしまう。起きたら、ちょうどボーディングの時間だった。

いろいろ乗り継ぎ、いくつか国境を越えて、やっと新河童国。定宿に無事に部屋が取れて、荷物を置いて、とりあえず専門書店へ。なんでこんなところにきちゃうんだろうね。とか思いつつ、棚をみていると、今日は日曜日なのでもう閉店ですとのこと。わあー、わたし明日、日本に帰ってしまうから、ごめんなさい、ご迷惑をおかけしますけど、5分だけください、とお願いして、3冊購入。碑文のすばらしいボリュームが全部そろっていたのだけど、お金がなかったし(ここは3万円以上買わないと、カードが使えないのだ)、もうすでにたくさんほかの本があったので、やめた。この本、出版した人はほんとに偉いと思う。何しろ、東南アジア中の華人墓地の墓碑とか中華寺の看板を撮影してあるすごい本なのです。東南アジア諸国内では、Oversea Chineseなんて、ほんとは言ってはいけないのかもしれない。なぜなら、本当のOverseaは、この域内の外のことなのだから。それで歩いて、Ngee An Cityの紀伊國屋へ。ええーと、なんでNew Age関係図書コーナーに、Homi BhabahとDavid Lodgeが並んでいるんだ?いや、いいのかもしれないけど、The Prophetと一緒に並んでいるのも微妙。GibranはNew Ageでよいかもしらんが。ものすごく長居をしてしまった。

それで怖いことがあったのはそのあとのこと。そのまま歩いて、別のビル内のホーカーで、おやつに雲呑麺を食べた。ふと視線を感じて、前を向くと、隣のテーブルに着いていた男性が、わたしをじっとみている。目が合うと、あわてて視線をそらすので、知り合いと間違ったのかなと思った。そのままそばを食べ続けていると、またわたしを見る。大概、わたしも自意識過剰な人間なので、とりあえずじっと見返して(!)、そばを食べ続けた。スープを飲んでいると、お椀の縁越しにさらに視線が合う。男、わざとらしい慌て振りで目をそらす。なんじゃ、と思って、さらに男性がわざとらしく視線を逸らした直後に、すぐに席を立った。勝手知ったる某国なので、とりあえず、入り口の二つある婦人厠所へ。入ったところと違う入り口が出たところで、待ち伏せしていた男性とかち合う。しかし、何も言わない。逆に、びっくりしたような顔をしてわたしを見る。冷静になろう。人混みに紛れるべく、オーチャードの真ん中を歩いた。何度か信号を渡って、道を左右しながら歩いたのだけど、人気も少なくなるサマセットを過ぎたあたりで、ふと、信号待ちの隣に男が立っているのが見えた。怖くなった。ドービーゴートまで重い本を抱えてほとんど走って(結構、距離がある)、思い切ってMRTに乗る。約束があったので、来たバスになんでも飛び乗るということもできなかった。タクシーを止めることももう怖くてできなかった。余程、道を歩いている人に事情を話して保護してもらおうかと思ったけれど、何かあったわけではないから、うまく説明できそうにない。ようやく駆け込んだMRTの中では、座席列の真ん中に座った。わたしを見ている人はいない。路線を乗り換える時も、知らないアベックにぴったりくっついていた。Bugisで降りて、地下フードコートの混雑に紛れて、リフトで地上に上がって、あたりを見回したら、西武の建物の対面のケンタッキーの前の信号で、あの男が人を探している。。

結果、約束の靴売り場で友達に無事に会えたので、すぐにタクシーで食事会のある場所へ移動したのだけど、ほんとに怖かったでした。というのは、その男の人が、香港マフィアみたいな感じだったから。香港マフィアの本物を知らないから違うかもしれないけど、ジャッキー・チェンの映画とかで悪者役をするタイプの人。にこりともしない。40歳くらいのおじさんだったが、女の子を引っかけるタイプの人にはまったく見えないところが、さらに怖かったのか。食事会は、凸凹大で学位を取って帰国した人たちの集まりだったのだけど、そのことを話したら、まあとりあえずは、「キミがすてきだったからだよ」と言ってくれるわけですが、わたしは実は、今回の滞在中、散髪屋でほとんど五分刈りみたいに髪を切られてしまっている。1センチだけ切ってね、といったのに、40センチくらいあった髪を残り1センチくらいにされてしまったのだ。あまりのショックで、ほんとうに何日も食事がのどを通らなかったほどで、ここに書く気力もなかったくらい。そういうわけで、すてきからほどとおいわたしとしては、ひたすら怖かったのでした。で、話は結局、「はやく結婚しなさい。アナタ、独身なのが悪いね」といういつものネタのサカナにされ、ことあるごとに乾杯!を繰り返す華人集団にもみくちゃにされて、いつものように二日酔いで呆然としながら、帰ってきました。いや、あの変なおじさんがすてきだったら、わたしのほうから「よくあいますね」とか言ったかもしれませんけど。とりとめもない話でしたが、落ちもなく、おわります。いろいろありすぎてなんか整理できず。明日からまた、国内巡業に行ってきますー。


21-03-2006 / Tuesday [長年日記]

_ おたんじょうび、おめでと。


22-03-2006 / Wednesday [長年日記]

_ 巡業一日目。疲れる。かなり疲労・疲弊しているようなかんじ。休みたい。

_ 「文藝春秋」四月号。村上春樹の文章を読む。

マリ・クレール誌に、今のわたしの関心のかなりの部分を刺激され、影響された記憶がある身としては、安原顯と村上春樹の関係にものすごくゴシップ的興味を持っていた。だからなのだろうけど、今回の文章は安原顯が亡くなっているのだからフェアではないと批評する人の意見は、はなから無視していた。全体を知らないと、たぶん、わからないだろうと思っていたから。読みながらいろいろなことを考えた。自筆原稿が作者の知らないところで売買されているということを知ることが、どのような気持ちの悪さを覚えるものだろうかと想像もした。村上春樹がこういう文章を書いたことの意味をきちんと理解したいと思った。そして、そういった文章が書かれた意図について考えることとは別に、もうひとつのこともまた深く、自分自身のことに置き換えて考えたりもした。それは、ある日を境に、突然、人の気持ちが変わってしまうということについてである。この数ヶ月ほどの間に、立て続けに数度、この経験を得ている。記憶から抹消しようと努力していたことを、否が応でも思い起こすこととなり、読んでいる途中で、叫びたくなった。何が原因だったのだろうか。それがどうしてもわからないでいる。どれだけわかろうとしたかわからない。いや、本当はわかっているけれど、その理由を自分が納得したくないだけなのだろうか。。。

そんなことで頭が一杯になり、今日の午後はずっと、胸のあたりが灰色の塊でずしりと重くなっていた。村上春樹はこの塊を、この文章を書くことで追いやることができただろうか。そのことをずっと考えて過ごした。今は、それを知りたい。


23-03-2006 / Thursday [長年日記]

_ 巡業3日目。他大学へ異動される先生と長々と話す。とてもよい雰囲気で和やかにお話ができた。いい先生だなあと今頃になって痛感。

飲みに誘われたけれど、もう体がもたなくて、一番を後ろを歩きながら静かにフェイドアウト。こういう消え方が一番きらわれるのだと言われつつ、もうなんだかこれ以上、気疲れするのが耐え難くて、ごめん、と心の中で謝る。声は届かないから、意味はないのだけど。すみません。

_ 巡業2日目(これは日付が変わってすぐのこと)。逢坂山よりも東で就職するゼミの先輩の追い出しコンパへ。死ぬほど食べた。相変わらず、睡眠時間3時間切っているところで、飲みに飲み、もう天地左右、不明になる。


24-03-2006 / Friday [長年日記]

_ 大ボスと若者カフェでランチ。場違いなふたり。


25-03-2006 / Saturday [長年日記]

_ ペンネ、おいしかった。

_ 夕べは夜中の三時ごろまで、帰省中の弟と話す。


26-03-2006 / Sunday [長年日記]

_ なんか疲れが蓄積しているみたいで、どどーんと寝てしまいました。

なにか食べたい‥と思うので、今からトーストを焼いてきます。トースト、バター、イチゴジャムと紅茶。これで一息入れてから、今日の真夜中までに提出の翻訳に勤しんでみます。なんかむりっぽいのだが。。

_ 最近、おもしろい本を読んでいなくてストレスフルになっている。なぜ読んでいないかというという、明らかな理由としては、本屋不足があげられよう。丸善、ブックファーストにいかにお世話になっていたか。ひいきの本屋のもうひとつは、談という本屋だけど、ここも数年前におそらくなにかがあって、微妙にわたしのストライクゾーンから外れるようになった。そういうわけで、自動的に、ほとんど本を読まなくなった。手持ちの本の再読を重ねている。同じ本を読むのがどちらかというと好きなので、苦痛ではないのだけど、なんだか物足りない。こうなると、自分は本好きだとおもっていたのだけど、なじみの本屋がなくなったくらいで、本を読まなくなる程度の人間だったのかなー、という気もしてくる。しかし、映画をどこの映画館で観たのかを気にするのとおなじで、本もどこでどんなふうにして出会ったかをいついつまでも覚えているタイプとしては、やはり今の本屋環境では、なかなかよい本と出会えないのもさもありなむかな、と思ったりしています。多分に言い訳ですけども。まあそのうち、ジュンク堂もだめになるのではなかろうかと。BALに本屋は似合わないものな。もっとヴィレッジ・ヴァンガードとかそういう本屋のほうが似合うような気がするわけです。というよりも、河原町通、もう歩いていてもまったく心惹かれるものがなくなってしまった。なぜカラオケ屋ばかりが林立するのかさっぱりわかりません。


27-03-2006 / Monday [長年日記]

_ ハノイが恋しくなっている。それまで、わたしが一番好きな街は、フライブルクだったのだが、今はハノイ。ドイツ人の旅人とたくさんあったのは偶然だと思うが。北の方にある西湖に向かって、緩やかに傾斜している旧市街は、歩いていてこれほど楽しい場所はなかった。目に映るものすべて新鮮で、懐かしい。通りごとにおなじ商売を営む店が並んでいる。その合間に古い寺院が挟まっている。古い商店の奥に燻る漢方の匂いは、フレンチ・コロニアルな建築のそこここにも、うっすらと漂っているように見えるのだが、それがとてもよい感じ。暗い一階の土間に差し込む黄色い明かり。朝の冷たい空気の中を道案内のように漂ってくる暖かい食べ物の匂い。光と匂いが混然としているのに、それがちっとも不快ではない。

コンデンスミルクの沈殿した熱い珈琲を、黄色い電球の下で飲んでから、朝が始まる。汗をかきながらブンやフォーなどの麺類を掻きこんだ。ある朝は、皆が白い息を吐きながら、舌をやけどしそうに熱い粥を食べているのに出くわした。すでに何度か通った牛肉のフォー屋で朝ご飯を食べたばかりであったが、ここへお座りと手招きされ、人民服のようなものを着たおじさんのとなりに腰を下ろす。すぐに差し出された粥に、五香粉を振りかけて食べた。おいしくて、なにもことばに出せないが、粥をよそってくれた人に笑いかけたら、それで十分だったようだ。何を食べようかと迷っていたある朝は、角を曲がると、そこに天秤棒をおろして、熱々のおこわをハスの葉に包んで、次々と売りさばく行商人と出会った。人垣ができている。わたしの入る余地はなさそうに見えたが、おばさんが<あなたはどれをたべたいの?>と聞いてくれたように思った。うっすらとオレンジ色に染められた糯米を指さした。ハスの葉の香が立ち上る。指で丸めたオレンジの塊は、ほんのりと甘く、おいしかった。ニンジン?おいしい、おいしいと声に出しながら、わたしもこちらの人と同じように、しばらくは道端にしゃがみこんでほおばった。

旧市街をぐっと南に下がってホアンキエム湖が見えてくると、交通量はさらに増える。しかし、水辺には不思議な静けさが漂う。いたるところに深く枝を垂れ、水面に濃い影を落とす柳が見える。まるで、緑の黒髪を垂らして水面を鏡のようにのぞき込む女の姿のようだ。カンフーシューズの足をゆっくりと持ち上げてはおろす太極拳の老女。非の打ち所のない帽子とスーツの老人が、ベンチに腰を掛け、フランス語の本を読んでいる。道端に点在する熱いお茶を売る露店に並べられた、風呂の椅子のように小さな椅子に腰掛けると、こちらがベトナム語を知らなくても、どんどんと話しかけてくれる。指さし会話で、食べたいものを食べ、ひたすら歩く。ハノイから海岸沿いに、ぐっとホーチミンまで歩いたが、ハノイの印象がわたしには強くて、気がつけば彼の地の思い出に浸るばかりだった。ホーチミンの安宿は、向かいの家との距離がほんの3メートルほどのごみごみとしたところにあった。裏通りの、ふつうの家が建ち並ぶ安宿街だったが、ときおり路地から聞こえてくるこどもたちのベトナム語が、タイル張りの部屋に飛び込んできて、小さな木霊のように天井をしばらく駆け回り、消えていった。暑い昼間には、水シャワーを浴びたあと、体に布を巻いただけで、しばらくベッドに横になる。いつの間にか眠ってしまい、夕方の熱気の中で目を覚ませば、また別の木霊がやってきていて、ここがハノイだかホーチミンだかわからなくなってしまう。ほんとうに自分は旅をしてここまで来たのか、最初からここにいたのか。

ぼんやりした頭で夕方の散歩に出る。排気ガスでしろく煙った交差点の露店で、珈琲を飲む。アイスコーヒーを飲み干して、残された氷越しに尋常ではない量の車とバイクの波をみていると、おばあさんがぬるいハス茶のポットを持ってきてくれる。これをグラスに注ぎ、コーヒーミルク味のお茶を飲むのだが、その組み合わせをごく自然に受け入れるわたしがいる。もう何年も、そうやってコーヒーを楽しんできたかのように。

そんな旅のことが懐かしく思い出され、旅の手帳を読み返してみた。また行きたいと思う旅ができたことの幸せ。


29-03-2006 / Wednesday [長年日記]

_ 午後からmofaより来客。わたしとかから一体、どんなに有意義な情報が聞き出せたのか、申し訳なくなる。夕方遅くなってから、大ボス等々が来てくださったので、お役御免。友だちと食事にでる。台湾料理屋で、鴨ダック?とかいうのを食べた。スモーキーで、おいしい。お茶でもしようかということになったが、シナモにはなんとなく入りづらかったので、サンシャイン・カフェまで歩く。ここはいつ来ても、いいお店だなー。やっぱり好きだ。三条界隈でよくいくお店というと、なんとかのひとつ覚えのごとく、さらさだったのだけど、最近はここと、オパールとキルフェボンがレパートリー。別格ははやしや。さらさは、荒神口を下がったところにもできている。ここもかなり、雰囲気よし。ただし、富小路のお店とはかなり雰囲気が違う。ここのおにいさん(店長)が、なんとなくわたしの好みなのです。話したことはない。話す予定もない。


30-03-2006 / Thursday [長年日記]

_ さらさ鴨川のことを書いた日のお昼、偶然、そちら方面に行く用事ができたので、お昼ごはんを食べてきた。おいしい。日替わりAランチは、稲庭うどんのフォー・ガー(トリのささみのフォー!隠し味は老酒なのかな)、蒸かしじゃがいもバター(おいしい!)、車麩の南蛮漬け(ちょっと微妙だったけど、こういう食べ方もおいしいね)、鯛とアスパラの炊き込みご飯(鯛がおいしかった。アスパラが春の味でおいしい)。これに中国茶を一品選べて、なんで780円なんだ。よいお店。健康的でおいしいものを食べると、とても幸せな気分になる。世も末なことが昨日あった。こういうことをするから、○×研究がだめになるのだと思う。でももうわたしには関係ない。そういう自由記念日の午餐としては、とてもさわやかな気持ちがするものだった。

ずっと○×研究者だと自分のことを思ってきたし、今もそう思っているけれど、他者の評価はそうではなかった。わたしに求められていたのは、雑用処理能力だけだったのだろう。なまじ仕事が早くて、なんでもこなせたから、こういうことになったのかな。そう思うのはまだしかし、比較的ハッピーな考え方で、そもそも、だれもわたしのことなど、研究者だとは思っていなかったということ。文学部に体育の学位を取った人を採用して、神学の必修クラスを指導させるような人事があった。そうするに、適材適所でない人事。一見、なんじゃそれは?人事なのだけど、きっとこれも、わたしにはわかっていないだけで、新しい社会科学の展望がみんなには見えているということなのだろうなと思う。見えなくてよかった。うちの専攻も、もうこれでほんとにおしまい。4月からは某書店員となる。一人で生きていくだけの、精神的な強さを得られたらいいなと思う。今回の人事では、おそらくわたしへの配慮がおこなわれたようで、もう2ヶ月以上前に決まっていたのに、わたしは昨日まで教えてもらえなかったというおまけつきである。事務の人はもちろん、非常勤職員の人、お掃除をしてくださるおばさんも知っていたことなのに、誰もわたしには教えてくれなかった。毎日、ご飯を一緒に食べていた某助手さんもだ。みんなにかわいそうがられているワタシ‥。それくらい、みんなわたしがどう思うかを気にしてくれていたのね、うれしい‥とか、そう考えることでわたしが救われるのであれば、もうそれでよい。大学院に来たことはよかった。ただ、大学という場所に、わたし自身が適材適所でなかったということに、ほかならぬわたし自身が、いつまでも気づかなかったことは、不幸だったかもしれない。気づかなかった故に、いろいろな人にご心労をかけてしまうことにもなった。申し訳ない。

でももう元気にしている。想定外人事があったことで、ショックは受けたけれども、それ以前から撤退することはきまっていたのだから。そんな感じで春を迎えます。でもふつうに元気にしています。もっといろいろなことがわかる冷静なおとなになりたい。ならなければ。


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