_ 巡業一日目。疲れる。かなり疲労・疲弊しているようなかんじ。休みたい。
_ 「文藝春秋」四月号。村上春樹の文章を読む。
マリ・クレール誌に、今のわたしの関心のかなりの部分を刺激され、影響された記憶がある身としては、安原顯と村上春樹の関係にものすごくゴシップ的興味を持っていた。だからなのだろうけど、今回の文章は安原顯が亡くなっているのだからフェアではないと批評する人の意見は、はなから無視していた。全体を知らないと、たぶん、わからないだろうと思っていたから。読みながらいろいろなことを考えた。自筆原稿が作者の知らないところで売買されているということを知ることが、どのような気持ちの悪さを覚えるものだろうかと想像もした。村上春樹がこういう文章を書いたことの意味をきちんと理解したいと思った。そして、そういった文章が書かれた意図について考えることとは別に、もうひとつのこともまた深く、自分自身のことに置き換えて考えたりもした。それは、ある日を境に、突然、人の気持ちが変わってしまうということについてである。この数ヶ月ほどの間に、立て続けに数度、この経験を得ている。記憶から抹消しようと努力していたことを、否が応でも思い起こすこととなり、読んでいる途中で、叫びたくなった。何が原因だったのだろうか。それがどうしてもわからないでいる。どれだけわかろうとしたかわからない。いや、本当はわかっているけれど、その理由を自分が納得したくないだけなのだろうか。。。
そんなことで頭が一杯になり、今日の午後はずっと、胸のあたりが灰色の塊でずしりと重くなっていた。村上春樹はこの塊を、この文章を書くことで追いやることができただろうか。そのことをずっと考えて過ごした。今は、それを知りたい。