_ 冷たい雨が止まない日。
_ いろいろな人が言及していることだけど、チャイナ・タウンやリトル・イタリー、リトル・インディアはあっても、リトル・ジャパンやリトル・トーキョーはなかなか滅多なことでは形成されないという話がある。夫になった人が住む街にも、実際に在留届を出している人の数を上回る日本人が住んでいると聞く。大学の多い街なので、そのほとんどは留学生であるというが、わたしのように現地で配偶者を得て、そのまま定住している人もやはり多いらしい。日本人会も置かれていて、不定期ではあるが領事手続きなどの出張サービスもある。が、たくさんいるとされている日本人が一同に集まる機会はまったくないようである。これだけ日本人がいるのだから、日本食レストランあるいは食材店などがあっても良さそうだが、実はないのである。食材は中華街の中華食材店にときどき見かける。あるいはコリアン食材店が業務用の大きなビンやパックに入った調味料を売っていたりする。が、とてもひとりでは使い切れない。かといって、共同購入するような仲間もなかなか見つけにくい。お昼ご飯をどこで食べるかでも、相手の財布を心配する必要があったり、心配されることがある。ひとりで行動するほうが気楽になるのは必然か。
母国以外の外国に住む人がみな同じだとはいわないが、外国生活における経済状態の格差やその他もろもろの格差は、予想以上に強固な壁となって、日本人ひとりひとりに張り巡らされているようでもある。あそこにも日本人がいるようですよ、あちらにも日本人がいるようだけど、みたことはない…。そういった囁き声がさざ波のように押し寄せるからには、どこに誰が住んでいるということには、みながそれなりに関心を持っているに違いない。それでも姿形が見えることはない。中国人社会における旧正月や、キリスト教世界におけるクリスマス、イスラーム社会における断食月といったイベントを、日本人が持たないからなのだろうか。他者と容易には交わりあうことがないのは、宗教的な要素の問題だけなのだろうか。
日本人会の構造は、日本における一流会社や高級官僚が頂上に据えられたヒエラルキー構造だとも聞く。そこにおける父母の立ち位置が、日本人学校における子ども社会にも反映されると言う人もいる。
自分自身は変わらずとも、社会的な立ち位置が変わることで見えてくる局面に、戸惑うことのほうが多い。とはいえ、日本人との付き合いにそれほど神経質にならなければ、問題はゼロに近い。ほとんどなにも問題はないような気がする。