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lost luggages ねぶくろ 書簡
--sleeping bag・g-ism/ist--

02-04-2011 / Saturday [長年日記]

_ 朝、顔を洗って身支度を整えようとすると、子どもがすかさず、化粧道具をしまってあるキャビネットの前にてけてけと歩いていき、おかあたん、はやく、というように、待ち構えている。キャビネットを開けて、ごしごし、ぱたぱた、かきかきとしていると、わたちにもしてちょうだいと催促してくる。少なさと、いまだにまったくほとんど伸びてこない頭髪の具合から、2歳の子にも「あかちゃんがいる」と言われたりする子どもの、ちょろちょろとしか生えていない髪に、ピン留めをつけたりすると、狂喜して、鏡でみせてくれと飛び跳ねてくる。抱き上げて鏡をのぞけば、似ているんだか似ていないんだか、二人の顔が映っていて、どちらも気恥ずかしくなって、ぎご地なく笑ってみる。子どもは毎日、大きくなっていく。靴がもうきつくなってしまっている。帽子や洋服は手作りができるけれど、母はペリーヌみたいに靴を手作りできるかどうかわからない。でもがんばって、なにかイネ科の草本を収穫に、子どもを連れて河川敷にでもいってみるか。や、イネ科じゃなくて、ツタみたいなツル性植物か。野山里山にあるもので、いろいろと作ってみようかな。


03-04-2011 / Sunday [長年日記]

_ 子どもの耳の治療のことと、某国へ行くにも日本を引き払うにもお金がないから何もできないということを説明してあるので、わかってくれていると思っていたのだが、原発問題が地震津波よりも国際的な関心を高めるようになって以来、夫が帰ってこいと、日に何度も電話してくるようになった。心配していることはわかるけれど、海外ではそれほどまでに原発問題が大きく報道されているのか。夫の話しぶりでは、わたしは好きにしたらいいけど、子どもは安全な場所に移せというニュアンスも感じられ、普段はテレビニュースなど見ない義理の両親の後押しもあるようで、なかなか抜き差しならない状況になってきた。説明しても、「核は怖いぞ」なぞという。そういう話になっているのか。説明しても聞く耳持たぬ様子の夫の気持ちはほんとによくわかるのだけど。。

_ いろいろとにかく節約モードということで、数か月前に化粧水を使い切って以来、新しいのを買わないできた。去年の秋ごろにNHKの情報番組で化粧水は使わなくも大丈夫、その代り、しっかりと保湿するためにクリームを塗ったり乳液をたっぷり使えばよいということを知った。手持ちのクリームと乳液だけでも、乾燥厳しい冬を乗り切ったし、むしろ、ぱさぱさしなくなったから、かえってよかったのかもしれない。手持ちのものを使い切った今は、清水の舞台から飛び降りて買った無印料品のホホバオイル(714円)で、これを重宝している。何しろ一滴でよいから、まったく減らない。そして、リンスも買わなくしたので、その代りに洗髪後、髪に擦り込んでいる。意外にも、髪はふんわりするようになったし、絡みもしなくなった。手足にも擦り込むようになったら、ハンドクリームもいらなくなった。もともと、化粧関係に費やす支出は少なかったから、ここを節約してもあまり意味がないのだけど、へえ〜、なくても平気なんだなあという発見があったのはうれしいことでした。多分、もっといろいろ節約できるはずな気がしている。


07-04-2011 / Thursday [長年日記]

_ そもそもの発端は、欧州某国在住の友人親子が御母堂の介護帰国をしていたところに、国内某所の某先輩が悲願の学位論文を提出、頃合は花見時ということで、全国から同期とその周辺の人々が集まることとなった。久しぶりに、わたしにとっては本当に久しぶりに、役場の人とかハローワークの担当の人とかではない知り合いと会って話をする機会となる。昨年秋に帰国して以来、ほんとうに、ほんとうに、久しぶりで友人たちと会う。渦中にあるときは、引きこもっていたなんてまったく思っていなかったのだが、ほんとにずっと一人だった。役場の人とかハローワークの人と話をしていると、なんて親切なんだろう、と泣きそうになることもあれば、なんでこんなことくらいわかってくれないんだと、ツーカーでは決して通じないもどかしい思いや悔しい思いでいっぱいになることもあった。

自分がどんなふうに思われているかについては、わかっているつもりである。だから、明日みんなで集まっても、もしかすると辛い思いをすることもあるかもしれない。でももう少し人とかかわるようにしなくては。ずっとずっと、スーパーのレジの人、宅配の人、子どもの病院の人たちだけが、わたしの仲良しだった。長い間、冬眠していたなあ。これからもまだ長く冬眠生活は続くのだろうけど、明日だけは子どもと一緒に、春の空気を吸ってこようと思う。


09-04-2011 / Saturday [長年日記]

_ わたしの頭にも胸のあたりにも、どんよりとしたもわっとしたものがいつも厚く垂れ込めているから、藤沢周平のまだ読んでいない小説を選ぶ時には、慎重でありたいと思っていた。しかし書架の前で選ぶのも、頭の芯が鈍く重たくまぶたを圧迫するから、ふらふらと伸ばした手は「海鳴り」の上下巻を選んでいた。耳鳴りと韻を踏む響きに誘われたのだろうか。文庫本を買うなんて、一体どれくらいぶりだろう。早速、帰りの車中で読み始めた。

一代で築いた紙問屋の新兵衛と、老舗問屋の女房のおこうの物語であった。今風に、下世話な表現を使えば、それはそれぞれ配偶者がいる者同士の不倫としかいえない。それがありきたりな偽純愛小説にならず、美しい人間同士の信頼感の物語に昇華されたのは、藤沢周平だからこそなのであろう。この小説を読んで、頭がすっきりとしたとか、霧が晴れたようだなどということは決してなく、今もまだぼんやりとした暗い気持ちでいっぱいだけど、藤沢小説にしては珍しく澄み渡った明るさに溢れた小説の終わり方が、とてもよかった。もちろん不安がいっぱいの主人公二人の道行きである。読者だって、そのことはようようわかっているのだが、なぜかそれほど悲観的にならなくて済むのは、やはり「純愛」ものだからなのだろうか。

_ 直前まで同窓会+花見に出席しようかしよまいかと(自分が事実上の幹事であるにもかかわらず;呼びかけ人は別の人なのだけど)悩みに悩み、夜遅くまで眠れず、明け方、起きだして、少しだけ書き物をして、結局、子連れで出席。子どもは会場となった古い民家を改装した和食店に一歩入った瞬間、なぜかはとんとわからないのだが、声をあげて泣き出した。それが結局、その日一日を象徴するような感じとなって、わたしはずっと子どもの面倒をみてばかりで、誰ともほとんど話せずにいた。でも、友人の子どもが我が子の背中をとんとんと叩きに来てくれたり、ミニカーを持ってきてくれたり、子どもは子ども同士、いつの間にか仲良く遊ぶようになっていた。デザートを注文するとき、「オレンジの人、手を挙げて〜」「こしあんがいい人、誰〜」などと呼びかけ人が声をかけてくれたのだが、我が子は、きなこがいい人〜、という声を聞いて、「はいッ!」と手を挙げていた。。耳は聞こえているんだろうか。そんなわけで、最初はおお泣きに泣いて、どうしようかという状態だったのだが、だんだんと場の雰囲気にも慣れてきて、運ばれてきた料理を手づかみで食べたり、テーブルに這いあがったりと、調子全開になっていたのだった。霧雨が一日中降っていたし、風邪を引いてしまうと、お正月に罹って以来、3月末にやっとこさ完治した中耳炎が再発してしまうのが怖かったので、お店を出て、わたしたちは帰ることにした。久しぶりだったので、足を延ばして寺町を下って下御霊神社、二条で曲がって木屋町を高瀬川沿いに下りながら、桜を見る。子どもとふたりでゆっくりゆっくりと歩いた。それだけでも今日は出かけてよかったなあと思った。子どもは終始ご機嫌で、ずっとなにかを話し続けていた。


10-04-2011 / Sunday [長年日記]

_ ちっちゃな同窓会だったけれど、参加者それぞれに印象的なひと時だったという記憶を残したようで、思いがけず、感想やお礼を交換するような状態が続いている。十人十色とはいうけれど、誰一人として、似たような人生を歩んでいる人がいないということもまた特筆されるかも。既婚者は全員国際結婚経験者という共通項は、それ以外になんの意味を持たないということ、まだ結婚していない人たちも、別にコンカツに忙しいわけでもなく、それぞれの親世代も要介護であったり病気がちであったりということはあっても、みなほんとうにそれぞれの道を進んでいた。ゆったりとした時間を共有することで、ほんのひと時ではあったけれど、よい思い出になった。集まった人がみんな子どもをかわいがってくれて、好きになってくれたことが、わたしには一番うれしかった。耳が聞こえていても聞こえていなくても、発達障害があってもなくても、この人たちはたぶん、お母さんに何かあったときには、あんたのことを心配してくれる人たちだよ、と話した。子どもは昨日もまだご機嫌な様子で、いつも以上に明るい顔をして、足元にまとわりついて離れなかった。また、お外に行こう。


13-04-2011 / Wednesday [長年日記]

_ 朝、子どもを保育園に送っていく。お天気もよいので、帽子を被り、靴を履いて、自分で歩いてみるように促す。手の届く範囲にわたしがいると、すぐに足にしがみついて抱っこをせがむ。なので、わざと少し先を早足で歩くと、道端の花や生け垣を目指してとととっと、突進。こっちこっち、と呼んでみても、子どもは笑顔で90度、明後日の方向に突進していく。少し抱っこして、また歩いて、保育園に近づくと、途端に顔を歪めて危険を察知したように、体を硬直させた。玄関で靴を脱がせる間に、もう大泣き準備完了で、教室に入ると、お友達諸君が、いったいぜんたいこのこはなんでないてんるんだ〜、と大勢寄ってくる始末。1歳児と2歳児が蠢くカオス教室に子どもを置いて、センセイヨロシクオネガイシマスと、足早に保育園を後にして、郵便局、薬局、パン屋に行ってさっさと仕事を済ませて家に帰った。三枚千円の子どもの夏服に、小花模様の端布を切ったり、ヨーヨーにしてみたりしたものを縫い付けて、三枚二千円くらいに見えるように工作した。ベトナム雑貨の百円ショップ屋で買ったレースは、なんと細いゴム入りで、ヨーヨーの円周にくるっと縫い付けたところ、嘘みたいにかわいくなった。子どもに早く着せてみたい。

_ 政権が頼りないからなのかもしれないけれど、ばらばらに住宅再建やら仮設住宅建設を進めるのはどうなんだろう。防災計画というか減災計画と連動した都市復興計画の中に位置づけて進めないと、いわゆる心のケアが等閑になってしまう可能性が高い。ハコモノは、できてしまうと、それだけですべてが解決したような気持ちに、当事者も政府も思ってしまうことがあるから。心のケアというのは、ちょっとオブラートに包んでいる。個人としての生活の再建、共同体メンバーとしての連帯意識とか責任感とか。どちらにも絡め取られて身動きできなくなる場合があることを、行政は多分、もうわかっているのだろうけれど、どうやってケアすればよいのか、わからないのだと思う。わたしにもわからない。それと、被災地に残って復興を遂げたい人と、一旦健康と心を落ち着かせてから生活再建に取り組みたいと思ったり、新しい場所で思い切って新しい生活を立て直したいと考えている人を二極分化してしまい、残る○去る×的な、安易な価値を与えてしまう可能性がある。今、一番考えなければならないのは、たぶん、阪神・淡路の復興住宅・仮設住宅で起きたような、孤独死(高齢者に限らない)をどうやって減らすかということだと思う。プライバシーの問題はもちろん大事なのだけど、お風呂や食堂台所は共用スペースで、あとは個室が確保できるようなタイプの集合住宅型仮設住居もあったほうがいい。そういうところの管理は、もちろん積極的に第三者がかかわることで、妙なコミュニティができてしまわないように配慮するようにすればよい。今、内閣で、こういった議論がどの程度おこなわれているのか、知りたい。内閣が何を考えているのかイマイチわからないというところが、日本全体を不安にさせているような気がする。


17-04-2011 / Sunday [長年日記]

_ 某日。夕方、子どもを迎えに行ったら、先生が、モウシワケアリマセン、、と謝ってくる。子どもの姿は見えない。へ?と、呆けたような感じで反応すれば、園庭の滑り台で遊んでいる時に、はいはいの姿勢で、両手を着きながら段を上った子どもが、てっぺんで立ち止まらず、そのまま両手バンザイの姿勢で、頭を下に向けたままでスロープを滑り下りたのだとか。それでちょっとけがをしたんですという。うじゃうじゃと集まっていた子どもの塊に目をやれば、わが子が眉間に真っ赤なケガをした状態で、ニカニカと笑っていた。用意していた着替えを全部使ってしまったので、園の服を着せてもらっていたから、よその子に見えたのだろうか。それとも眉間の真っ赤な傷のせいだったのか。先生は、電話しようかと思ったのだが、子どもがすぐに泣きやんだこと、出血もすぐ止まったことから、様子をみることにしたのだという。いわゆる鼻の骨、あと数センチ上だったら(あるいは下だったら)死んでいたなどと語られることの多い場所の話である。「モンペ」じゃなくても、我を忘れる人もいるかもしれないなと、なぜか冷静に考えながら、でもとにかく頭を打った場合は、悪い症状はすぐにはでない場合もあることをおさらいし、「では、明日の朝までこちらも自宅で様子を見ます。その時点で何か異常があれば、すぐに病院に行きます。それから園に連絡するということでお願いします」と、なんだかちょっとビジネスライクに話をまとめて、すぐに帰路についた。靴も履かせずに、正門を出てぐんぐん歩いて、大きな桜の木の下に着いてから、ようやく深呼吸して、子どもに顔を近づけた。眉間より少し下に、見事な擦傷だ。子どもは、地面に下ろしてもよろめくことはないし、裸足でアスファルトに立っているのが愉快らしい。靴下すら履かせなかったのかと気がついた。自分が実は動揺していることを確認してちょっと苦笑いして、ベンチに腰掛けて靴下と靴を履かせて、手を引いて帰った。長い影と、うんと短い句読点みたいな影を道連れに、少し遠回りして子どもの歩く様子を確認しながら帰宅。びっくりしたなあもう。でも翌日、子どもはごくごく元気に朝、起きてきた。元気があってよろしい。後で、本当はもっと先生に抗議すべきだったのになどと言われたのだけど、週一回という肩身の狭さとか、自分の社会的立場の脆さとかで気後れしてしまったという側面は否めない。社会的に、どこにどう位置すればよいのかわからない不安定さを親が持つようではだめだと、次の日になってから気づく。子どものためにも、しっかりせねば。


19-04-2011 / Tuesday [長年日記]

_ 冷たい風と雨が吹き付けるときもあったけど、ところどころ、お天気もよくて。久方ぶりに柳月堂でパンを買う。持参のお弁当を子どもにつかわせたのだけど、河川敷を吹き抜ける風が強すぎたのと、隙あらば接近してきそうな勢いで、われわれの上空を旋回し続けるトンビを威嚇し続けるのに疲れてしまい、30分ほどで退散した。家に帰ると同時に雨が降り出した。用事も片付けたのでほっとして、帰宅と同時に二人して長い昼寝をしてしまった。

子どもの眉間の傷は、さすがに新陳代謝が早いのか、オロナインの効果なのか、もうほとんど治っている。カサブタも剥げて、きれいになった。見る度に思い出さずにすんでよかったけれど、子どもは滑り台で遊ぶのを怖がったりしないだろうか。大丈夫かなと少し心配。子どもはこちらが、え?と思う場面で泣き出すことがある。たとえば、テレビの画面いっぱいに、おおきなおおきなバオバブの木が映し出されたときのこと。子どもは怯えて突然泣き出した。星の王子様か。


24-04-2011 / Sunday [長年日記]

_ 幼馴染は年子の二人姉妹だった。三人で遊ぶから、いつもキャンディーズごっこ。顔が似ていたから、幼馴染はランちゃん、その妹はミキちゃんの役。わたしはスーちゃんだった。三人で歌って踊った日々には、もう帰れない。今でも、あの頃、レンゲを摘んだりアリの巣を襲撃した原っぱの跡地に建ったマンションの前を通ることがある。あのころのわたしたちの影を探してしまうことがある。ときどきテレビでキャンディーズのメンバーをみかければ、必ずあのころのことを思い出した。これからは、もうあまり思い出さなくなるだろうか。いろいろなものを失くしながら、年を取っていくのか。その分、得るものもあるかもしれないが、いつも探してやまないものは、今ここにはない。過去にあったのか、未来にあるのか、それすらもわからなくなって、混濁してきた今を生きている。霧が晴れる日がもし来たら、思いっきりキャンディーズを歌ってみたい。わたしの代わりに行ってしまったスーちゃんの弔いのために。


28-04-2011 / Thursday [長年日記]

_ 復興とか復旧とか、今までとはまったく違う発想で、取りかかる必要があるんじゃないかなとずっと思っている。たとえば昔のソ連のソフホーズとかコルホーズみたいなかたちを援用したような、新しい農業や漁業の基盤を整備するとか。個人の生活の再建と、生業基盤の復興は、分けて考える方が、被災者の負担は少ない。次の地震津波が来るのが何年後になるかはわからないけれど、災害に強い復興プランというものがもしあるのだとしたら、個人の被災の規模を少なくすると言うことだけなのではないかと思う。「想定外」を考え出したら、きりがない。そのことはもうわかっているし、それが免罪符にならないことを考えるのも、大事なのではないか。生業活動と生活の場をゾーンで分けるのは、前回の地震津波の時にも、一部の集落ではおこなわれていたことで、それ自体はむしろ伝統的な考え方だ。でも有効なことはわかっている。この取り組みをひとつの地域が単体で実践するのではなくて、より広い地域で実践されたらいいのになと思う。個人個人が災害から立ち直る、被災を乗り越えるというのは、もちろん大事なことだと思う。しかし、一人で乗り越えるには今回は被災の規模が大きすぎる。新聞によれば、すでに自殺者も出てきてしまっているのである。今さら政権を批判してもはじまらないのだから、みんなが考えを出し合っていけるようになればよいのだけど。

仮設住宅も、そんなに急いで作らないほうがいいんじゃないかなとも思っている。ほんとはもっと早い段階で、使われなくなった学校や施設を改装して、「仮設住宅」とすればよかったとも思っている。ホテルや民宿なんかを政府が向こう1〜2年借り上げるくらいの機転があってもよかったんじゃないかなとも思った。すでに2ヶ月目を迎えようとしている時点で、一体、何がどうなったのか。被災地の外にいて、たくさん情報を持っているはずの人でも、実はあまりよくわからなかったりする。


30-04-2011 / Saturday [長年日記]

_ 子どものわがままっぷりに泣かされている。朝、顔を洗うと、わたしよりも先に化粧グッズをおいている棚の前に陣取り、わたしが化粧品を使うと、自分にも使わせろと主張する。乳液を掌に出すと、すかさず人差し指を浸して、実に誇らしげな顔をして、なぜか耳の後ろに塗る。眉を描けば、自分にも描いてくれと、目を閉じて顔を突き上げる。髪を梳かせば、いまだにヒコバエみたいにしか頭髪が生えていない頭を振りかざすので、ブラシで頭皮マッサージ風にポンポンと頭をなでれば、完璧!という顔つきをして、お澄ましポーズを取る。目下のところ、一番お気に入りのカバンであるらしいauの紙袋に、ありとあらゆる細かいおもちゃを詰め込んでいるのだが、それを手にかけて(底は若干引きずりながら)、さあお出かけしましょ!と玄関で靴を履こうとする。すぐに出かけないと、必死の形相で大泣きする。思い通りにできないときもあるんだよということを、どうやって教えていけばいいのか、まあだんだんとたいへんになってきた。


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