_ 20年余りのときを経て、独裁者として裁判にかけられ即日公開処刑された政治家に対する再評価の動きが出ているというニュースを読んだ。自由主義経済の民主主義は、当然、すべての人に豊かさと幸福を約束するものではない。抑圧的な時代であっても、それは一部の人たちのものであったのと同じである。テロリストの首魁とされる人物が「殺害」されたと報道された。殺害された時は、非武装であったと新聞は書いている。「殺害」「非武装」ということばの使い方から、今回の「正義」に対するもやもやとしたきな臭さが感じられないはずがない。どれくらい時を経ても、そのきな臭さを覚えているのは、民衆なのではないだろうか。今回のことが、単に報復テロを招く可能性があるといった短期的な見通しだけでは済むとも思えない。正義の側に同列するものにとっては違和感を、あちら側に属するものにとっては禍根を残したのではないか。大量破壊兵器があったかどうか、もはや確認するすべがない(あるところにはあるのだろうけど)のとおなじく、テロリストの首魁がほんとうに実在したのかしていなかったのか(本当に殺害されたのか否やを含めて)、第三者が確かめるすべがない正義なんてほんとにあるのかという気持ちになってしまう。