_ 某日。サラ・ウォーターズ、エアーズ家の没落(上・下)、創元推理文庫。狂気に陥った人間と正気の人の対比に力点が置かれているわけではないし、明らかに存在するという前提に立った上での「館」そのものの邪悪さといったものは、キングの「シャイニング」ほどに背筋を凍らせるような怖さを感じさせることはない。シャイニングの場合、わたしは背表紙の文字に目を遣ることもできなかったくらいだった。しかしだからといって、怖くないというわけではない。むしろ解説の解釈とは違うのだけど、この館の邪悪さを「誘発」というか眠りを覚ましたのは、メイドのベティではなくて、信頼ならない語り手である田舎医師なのではないかと思った。10歳の時、ガーデンパーティーの時、誰もが少し気分を高揚させていたあの午後に、10歳の少年だった医師は、越えてはならなかったはずのカーテンの向こう側に足を踏み入れ、石膏細工の装飾のドングリをもぎ取ってしまった。この館との関わりが、それから30年後に医師として足を踏み入れた領主館で、ベティの診察をきっかけに始まってしまう。なぜこの医師は、それほどまでにこの館に執着するのか。エアーズ家の誰よりも、この家を賛美し正気の人びとの健全なる精神を蝕んでいく館の不穏さ、邪悪さを直視しなかったのか。きっと、30年前に館に魅入られた少年の再訪を、館はずっと待っていたのではなかっただろうか。一気に読んでしまったけれど、カタルシスがなかったのは、この医師が一時的には愛する人を亡くしたりして傷ついたとはいえ、館に対する執着を未だに持ち続けているからなのだろう。その、館と彼だけが理解し合っている狂気の表現が、イギリスの小説らしく上品に抑えられていたからなのかもしれない。そういう意味では、シャイニングよりも怖いというべきか。
_ 某日。サラ・ウォーターズ、エアーズ家の没落(上・下)、創元推理文庫。狂気に陥った人間と正気の人の対比に力点が置かれているわけではないし、明らかに存在するという前提に立った上での「館」そのものの邪悪さといったものは、キングの「シャイニング」ほどに背筋を凍らせるような怖さを感じさせることはない。シャイニングの場合、わたしは背表紙の文字に目を遣ることもできなかったくらいだった。しかしだからといって、怖くないというわけではない。むしろ解説の解釈とは違うのだけど、この館の邪悪さを「誘発」というか眠りを覚ましたのは、メイドのベティではなくて、信頼ならない語り手である田舎医師なのではないかと思った。10歳の時、ガーデンパーティーの時、誰もが少し気分を高揚させていたあの午後に、10歳の少年だった医師は、越えてはならなかったはずのカーテンの向こう側に足を踏み入れ、石膏細工の装飾のドングリをもぎ取ってしまった。この館との関わりが、それから30年後に医師として足を踏み入れた領主館で、ベティの診察をきっかけに始まってしまう。なぜこの医師は、それほどまでにこの館に執着するのか。エアーズ家の誰よりも、この家を賛美し正気の人びとの健全なる精神を蝕んでいく館の不穏さ、邪悪さを直視しなかったのか。きっと、30年前に館に魅入られた少年の再訪を、館はずっと待っていたのではなかっただろうか。一気に読んでしまったけれど、カタルシスがなかったのは、この医師が一時的には愛する人を亡くしたりして傷ついたとはいえ、館に対する執着を未だに持ち続けているからなのだろう。その、館と彼だけが理解し合っている狂気の表現が、イギリスの小説らしく上品に抑えられていたからなのかもしれない。そういう意味では、シャイニングよりも怖いというべきか。The Littel Starangerという原題を「誰」に解釈するかで、恐怖の度合いが変わるかも知れない。そういう意味で、解説の解釈とわたしの感想は異なる。