_ サリンがばらまかれた日、わたしはアルバイト先の博物館にいた。お昼だったのかおやつの休憩のときだったのか(多分、お昼だな)、なにか想像もつかないような事態が発生したということをテレビのニュースでみた。そのときにみんなで話したことは、東京には人が住みすぎているから、生態環境が耐えられなくなるほどの圧力がかかり、なにかの秩序が乱れた結果なのかもしれない、なにしろ東京の地下鉄は深いからね、、、というような内容だった。もちろんその頃には、「毒ガス」ということばが報道の中で使われていたから、なんらかの人為的な行為の結果という可能性をまったく排除していたわけではなかったと思う。しかしテロということばは、まだ市民生活の中の語彙にはひっそりとしか含まれていなかったように思う。「テロルの決算」という本があることは知っていたから(その時はまだ読んでいなかった)、テロということばは政治と親和性が高いようなことばではないかなと漠然と思っていたくらいで、。「宗教」ということばに対しては、高校時代から友だち同士で話すときには存分に「新興」という修飾語をたっぷりと使うことはあった。どちらかというと学生運動の残光がちらちらときらめく自由な学校にいたので、先生たちとも政治や宗教のことをよく話合ったりもしていた。先生たちが如何にして、生徒たちの味方になったかとか、そんな話もよく聞いていた。それでも、あるいはそれだからなのか、どんな接続詞を使えばよいのかどうすればいいのかわからんが、テロということばをどういうふうに使うのが適切なのか、誰も知らなかったように思う。「赤い旅団」でしたっけ、新聞オタク小学生だったので、しばしばその文字が紙面に登場する度、結局なにもわからないのに、真剣に読んでいたことを思い出す。
今回、身柄を拘束された女性もそうだし、年末に出頭してきた男性もそうだけど、誰かとずっと一緒に生活をしていたということに、わたしは(よかったな)という気持ちを持っている。かれらがどんな役割を果たしたのか、どれほどの罪を犯したのかということについては、これから明らかになっていくのだろう。だからそれについては、専門の人たちがいろいろと明らかにしてくれることと思う。今、新聞などで断片的に伝えられる情報を読む限りにおいては、この人たちが今まで寝食を共にする人と普通の生活を過ごしていたらしい。そういう経験があったのだから、きっと、その間に考えたことをはっきりと振り返って伝えることができるんじゃないかなと思ったりする。渦中にある当人だって、その当座には全然わかっていないようなことって、あるもんだ。ずっとあとになってから、その時のことをわかるということがあるのだ。