_ 神社の前を自転車で駆け抜けた。七五三であるが、経済的な余裕もなく、なんともしてやれず。いつか余裕ができたら、きれいに着飾ってやって、ふたりで普通の晴れた日にお参りに行こう。
_ もう11月半ばか…。呆然としています。
図書館で借りたルース・レンデルを読み耽ってしまい、子どもの機嫌を損ねる。負い目があるので、雨の午後はずっと子どもと一緒にムーミンの冒険ごっこをした。今年出版されたムーミンの絵本で、これはヤンソン姉弟のオリジナルの絵なのだとか。色使いがものすごく独創的で新鮮。美しい。子どもはこの絵本のように、ある晴れた日、船に乗って冒険に行きたいらしい。お風呂でも黄色いアヒルさんたちをちいさなバケツに入れて、冒険ごっこをしている。お風呂に入っていなくてもそれをしたいらしく、衣装整理用のちいさな籠をわたしの膝の上に置き、その中に入ってどんぶらことやるのである。。わたしのほうは、鬼平さんに膝の上に石瓦を置かれている責めに遭っているかのごとくの辛さですが、こんなことできるのも今だけだよなと思って、一緒にどんぶらことやっている。
ところでルース・レンデル。『ロウフィールド館の惨劇』。ここで描かれているのは、ひょっとして識字障害のことなんであろうか。続きはまた明日とかに書こうかと思います。
_ ルース・レンデルの本、やはり識字障害のことのようだと説明するものもあるようだ。だとすれば、やはりもう少し題名に工夫が必要なのかも。惨劇は惨劇なのだけど、そこにはもう少し複雑な意味が含まれるから。惨劇の理由が、個人的な怨恨にのみ還元されるべき理由と一蹴してしまうこともできるかもしれないけれど、時代的な背景を考えれば社会的な理由だとも言えるからなのだけど。映画にもなっているようなので、いつか観てみたいよ思った。サンドリーヌ・ボヌールといえば、アニエス・ヴァルダ。懐かしい、わたしの映画狂時代の女優が主演しているらしい。
_ いつも9時には寝てしまっている。今日は11時過ぎに大学の友だちから電話があったようだ。というのも、うっかり電源を切るのを忘れていたので、呼び出し音で起きたものの、目覚ましアラームと同じ音の設定だったので、目覚ましが鳴ったと思い、即座に切ってしまったのだった。でももうとてもかけ直す気持ちにもなれず(中途半端に起きたので頭が痛み)、寝直そうと努力してももうだめになってしまったので、今深夜2時近くにこれを書いている。今読んでいる本は、「ナニカアル」(桐野夏生)、「パイは小さな秘密を運ぶ」(ハヤカワの推理小説)、久生十蘭の従軍日記。桐野夏生は、面白く読んだけど、色々気になるところがあって、惜しいなー、なんて思った。それは文体のこと。なんて現代的な言葉づかいなのだろう。そこに少し違和感を覚え始めたら、結局、最後まで楽しむことができなくなってしまった。文体って、やっぱり大事なんだな。そう思うと、「高台にある家」は小説の内容にふさわしい文体と言葉づかいで、読むのが本当に楽しかった。重厚長大な、ぐいっと引き込まれる小説をもっと読みたい。現実を忘れるようなドライブ感のある小説に飢えている。
_ 資格試験の合否は、来月末に出される。といっても、この資格は民間の資格なので、国家資格ではない。規定の時間数、その資格の勉強をしたことがすなわち、一種のお免状を兼ねるようなものである。某先輩が上手いことを言ったものだが、「つまり、博士課程の単位取得退学やね?」。ずばり、そのとおりである。
そういうわけで、お免状を手に、わたしは地域の活動団体にさっそく登録に行ったのであった。まあ役に立つのか立たないのかといえば、立たないほうになる。しかし、自画自賛だが、なにがしかの達成感を覚えている。なんでもがんばればできるんだなあという、ありきたりのものではあるが、素直にうれしいなあと思っている。地域の活動は、できるだけ楽しく、関わっていこうと思っている。リラックスして、ちょっとずつがんばっていって、自信をもてるようになれればなあと思っている。
_ なにをするのもいつもぎりぎりになってしまうのを、本当になんとかしたい。ぎりぎりに間に合わせればなんとかなるとわかっていて、そのために四方八方に迷惑をかけることにもなるし、無用なあれこをしなければならなかったりするのだから。事前にわかっているのであれば、そこをもっとなんとかできないのが自分というものだと開き直るべきか否や。ちょっと疲れてしまっている。
_ 相変わらず、ルース・レンデルを読んでいる。なにかが起こりそうで起こらなさそうで、しかしスリル満点の緊張感は最後まで途切れず。『眺めのよい景色』などは、翻訳の文体によっては、森茉莉の『枯葉の寝床』とか、そのあたりの小説みたいになるのではないか。耽美的な要素と、人智の及ぶところではないなにかの構成がうまい。うますぎるから、もっとわかりやすい推理小説の影に隠れてしまうのだろうか。最近は、本を読んだ片端から内容を忘れてしまうのだが、ルース・レンデルに関しては、そうならずに、いつまでももやもやと頭の片隅にモダン・サスペンスの空気が澱んだようになっている。
_ 鼻風邪を引いた子どもを診療所に連れて行って、帰りにお寺の境内で紅葉を鑑賞。公園の桜の枯葉を踏み拉きながら、鬼ごっこをした。捕まえても捕まえても、自分が鬼になるのはいやなので、身を捩らせてはするりと腕を抜けて、また駆けて行ってしまう。今はまだ辛うじて子どもよりも早く走れるが、そのうち、追いかける気力もなくなってしまうことだろう。それを寂しく思うのではなく、その日を楽しみにしながら、子離れの準備を進めて行きたい。
_ 時間があったので、大きな街まで出てパスポートの更新。10年と5年、好きなのは青色の表紙なので、ずっとそうしてきたのだけど、今回はどうしようかと考えて、証明写真の出来がよければ10年、悪ければ5年と決めた。で、節約して普通の証明写真ボックスで撮影したら、結果としては5年を申請することになった。写真のできばえといっても、あくまでも当社比の主観。でも、青色の方が好きなんですよ!
雨が降っていたのだけど、久しぶりのゆったり時間だったので、3つほど手前で降りて、雨の中を歩いた。そんなのも久しぶり。銀杏の葉がすっかり黄色になっていて、桜はもう落葉していて、短い秋があっという間に終わって、もうすっかり冬支度の街になっていた。
雨の日独特の乗り物の中の匂いが眠気を誘った。引っ越しの荷物の箱から見つけた古い古いイタリアのペンネを茹でて、これもとっくの昔に賞味期限が切れていたトマトソースを絡めて食べた。いつの時代にタイムスリップしたいだろうか。過去よりも断然未来へ行ってみたい。今よりも少しでも幸せになっているのだとすれば、今をもっと元気に乗り切ることができそうに思うからだ。
_ あ〜というようなことがあって、ちょっと凹んでいます。こういう凹み方をしたのは久方ぶりなので、自分の凹み様をもてあましてしまって、また一千回目の「あ”〜」という大声溜息をついてしまっています。でももう大人なんで、夫も子どももいるので、早く頭を切り換えていかねば。そう思うだけ、昔より数段大人になったのかもしれない。で、ここにこうして書き散らせば、少しは気分が晴れるかと思って書き散らかしています。
でもそうするまでに随分と馬鹿なことをいくつかしてしまいました。思い余って、もっとショックなことを探してみようと、高校3年生のときに付き合っていた人の名前を検索してしまったり。。ははは。で、思いがけずですね、最初にヒットしちゃったんだなあ。結論をいうと、その当時、予想していたとおり、その人はアートの世界にいる人になっていました。8歳ほど年上のパートナーの女性もアーティストとのこと。なんかいろいろと知らなくてもよいようなことを知ったりしてしまいました。で、そんなことをしてしまったことにさらにショックを(勝手に)受けて、なんだかもうなあ…というスパイラルに入っています。もう相談する友だちなんて誰もいないから、ひとりで淡々と受け止めるしかないなあ。どんな厳しいことになっても、淡々と、粛々と、受け止めるしかないなあ。それとも出家すべきか。
_ 一晩寝て、落ち着きました。問題解決に向けて、落ち着いて取り組もうと思っています。これからは自分のやり方を過信しないで、もっと冷静に、もっと誠実に、決めていきたい。凡ミスはもうするな!
昨日、昔のボーイフレンドの現在を知ることとなったと書いた。パートナーの方がとても素敵な大人の女性だったことが、とても似合っているなあと思った。ずっと、あの人には年上の人が似合うと思っていたから。わたしが若い頃は、まだ今ほど年の差のあるカップルはいなかったから、こういう感想をそのときにわたしが持っていたというのは、ものすごく特殊な考え方だと思う。でもそういうのって、わかるんだよな。。いや正確には、その頃のわたしにはわかることができたのだ。
わたしが大学を辞めるまで、びっくりするくらい近くにふたりが住んでいたこともわかった。そういうことってあるんだなあ。
_ 連休だったので、このページのcssファイルをどこかアップロードしておこうと思い、無料のサーバーをさがしたら、今はジオにcssファイルもアップロードできるんだとか書いてある。で、登録して、新しいスペースをとりあえず登録して、さて…と思ったら、すっかりタグの書き方やら、なんやらを忘れてしまっておりました!いちから思いだなあかんと思い、検索したりしたのですが、これはもっと時間の余裕のあるときでないと、もうできないなあと早々とあきらめた次第です。
cssを使うんじゃなくて、タグを書いて、ここをもう少し見やすいようにしたほうがいいと思いつつ早幾歳。読んでくださっている方がたに、ご不便をおかけして申し訳ないです。すみません。
_ そういうわけで、この数日、近所の友達にちょっと相談したりすることもあって思ったこと。わたし以外のひとは、みんな大人なのだ。今、ほとんど人とのつきあいもなくて、資格を取るための勉強をしていたときに知り合った人とも、もう音信不通になっている。どんなふうに人と連絡を取り合えばよいのかもうわからないし、誰とも関わり合いにならなくても、生きていこうと思えば生きて行けたりもする。いわば、外出もする引きこもりというところだろうか。保育園でママ友を作ればよいという考え方もあるけれど、これもなかなかむずかしい。一人だけ、当たり障りのない立ち話をするママさんもいるけれど、連絡先だって知らない。もう人と関わるのが面倒という段階を通り過ぎ、ひとりでも大丈夫という次元の問題となっている。。
わたしの周りの友達、昔からの友人/知人は、こういったことなんかで煩わしい思いをするよりは、前へ前へと進んでいる人たちばかりである(そうでない人もいるかもしれないけど)。だから余計に、ひとりで抱えて発酵させて飲み込んでまあええかと流してしまっているのかもしれない。本当に成長しない、成長しようとしないんだよなあ。いつ大人になるのだろうか。もうならないかもしれないのだけども。人生をやり直したいとは思わない。昨日も書いたように、未来の自分が幸せそうにしている図があるならば、それを見たい。そう思って、1年後の自分が今よりも元気であることを切に願っている。そのために、今はとにかく資格試験の合否を待っている。結局、そこに行き着くのが現実なんだなあ。とにかく落ち着いて待とう。
_ zebra [いやはや久しぶりですね。 何かかにか切り抜けられているようで、ご立派! お子さんもかわいいさかりでしょう。 季節がら..]
_ ね [ご無沙汰しております! 相変わらず、匍匐前進あるのみでなんとかやっています。 子どもは日に日に、人間のことばを話して..]