_ 先日、わたしの研究分野では超有名な某大学名誉教授の先生の講演があった。わたしも凸凹大学に所属していた当時、国際シンポジウムで何度もお目にかかったことがあった。今回、こちらでは初めてお会いする機会となった。世界的に有名な先生だから、さぞかし学部中の先生がいらっしゃるのだと思っていたら、どうやら学部生や大学院生が中心で、教員はほとんどいなかった。この講演会の話題は、先生のご専門の話ではなかった。人文学系学問の未来について語るというものだったから、広く日本語教育も含めた語学系の学科の先生もいらっしゃると思っていたのだった。それに、単に人文学系学問の未来について希望的観測を語るのではなく、なぜこの分野の学問が必要なのかという点やこの文学部がかつてトップクラスの研究をしていたのが長期的凋落傾向にあることについての理由などについて、グローバルな視点から語るというものであった。わたしはたいへん興味深く聞いた。ところがあとから同僚の先生たちに聞くと、英語だったから途中で抜けたわよ、ということだったのだ。日ごろは、もっと日本語で書かれた論文や資料を読んだほうがいいですよなどというと、わたしは日本語を読むより英語を読むほうが楽だから…なんて言って逃げてしまっていたのに!何たる二枚舌か…なんてことは野暮なのでもちろん言わずにいたわけです。
それにしても、このメインスピーカーの講演が終わって15分のブレイクを経て第二部の講演が始まったとき、聴衆が3割くらいにガクッと減ったということのスピーカーに対する非礼をだれもなんとも思わなかったのだろうか。またこの第二部の話題が終わって質疑応答が始まったとき、最初の質問者が「本日の講演内容とは少し関係なくて申し訳ありませんが、我が国のゴミ問題についてどう思いますか」と、自信たっぷりの英語で話した大学院生の頓珍漢ぶりがまたスバラシくて(第二部の話題はカルチュラル・スタディだぜ!)、さすがのモデレーターもフォローしきれず、その質問がなかったものとして司会を進めるしかなかった。
この国の人たちは、客観的に見るとみなコメディアンである(@ネルソン・デミル)。しかし、当事者としてかかわると、笑って済ませることなど到底できない鉄壁のナイーブさがある。わたしは第二部の話題提供者に深く深く同情と哀悼の意を表した。この方も、超有名な大学の先生なんですが、第一部のスピーカーの対バンを張らされることになったのは、本当に不幸なことだったと思う。というか、この講演会、なぜ二人もスピーカーが必要だったのか。それが一番の謎。