_ 久々に学校へ来て、用事を済ませて、人としゃべったり、なんだかんだこなす。
向こうの方の山がもわっとした眠たいような色合いになっている。春なのだな。
_ 今日のお洋服:というか、旅行中前半はがんばっていろいろな組み合わせに挑戦していたのに、後半はずっとおなじ服を着ていました。
今日は、黒のボートネックセーター、グレー地の大柄の花模様スカート、ブーツ。コートを着ていったら、暑かった。
_ 偶像崇拝はわが宗教では御法度なのだ、という言い回しはよく聞かされた。わたしには、華人の家でよく見られるような祭壇や、仏陀をはじめ、さまざまなカミの肖像画?のポスターを貼ったりしないのかと聞くこともあった。しかし、偶像崇拝を認める宗教に対して、ひじょうに寛容な理解を示しているという印象を受けるくらいに、他の宗教の悪口などは聞かなかったように思う。自分の宗教を押しつけるようなことも、もちろん一切なかった。
興味深かったのは、宗教的な指導者の写真を御守りにして、これを巡礼の旅に持っていく人が多かったことだ。ふたつの掟破りがここにある。ひとつには、宗教的な指導者は偉大なる神でもなく、預言者でもない。なので、この人物を頼りにするということ自体が、まず本来は許されないことである。もうひとつは、写真を御守りにするというのは信仰を偶像化してしまうことである。神への祈りによってこそ、本来は自分の身を守ることができるはずなのである。苦笑いをしながら、このような説明をしてくれる人もいたが、御守りを破棄せよなどということはなかった。
ムハンマドの風刺画をめぐり、多くの信徒が暴力行為によって、かれらの感じた宗教への冒涜に対する不満を表出させている。しかし、日常的宗教実践の場面では、神と自分との距離の取り方は、ひじょうに多様である。ムハンマドの肖像画を描いたりすることは確かに憚られるかもしれないが、預言者のことばを民にわかりやすく説明し、人びとの生活と宗教実践をスムーズに結びつける役割を果たす指導者は、容易にアイドルになりやすい。その人のことばをとおして、宗教がはじめて理解されることもある。日々の暮らしと宗教との関係をみているからなのか、風刺画を新聞に掲載し、それをまた転載した側の軽率さに対する批判的な感想よりも、それに反発した側の行為に対して、他に方法はなかったのかと思ってしまう。暴力的な反発行動が発生しているのが、「むら」や「集落」ではないということを考えるにつけ、日々の生活を律する基盤に宗教が確かに組み込まれている人たちが、今回の出来事をどのように理解するかを、知りたいと思う。