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lost luggages ねぶくろ 書簡
--sleeping bag・g-ism/ist--

01-10-2009 / Thursday [長年日記]

_ おととい作った肉なし肉じゃがに卵を落とし、昨日作ったひじきの煮物で朝ごはん。おいしかった。

下宿の大家さん一家と朝から長話。王家の人々なので宮中行事の際の席次だとか衣装の着方やら教えてもらう。あとは立ち居振る舞いとか言葉遣いとか。高貴な人々と言ってもまったく気取った人々ではない。貴族の称号は敢えて名乗らず、庶民とおなじレベルで暮らしている。こういう人がごろごろといるところだから直接話を聞くことができてなかなかおもしろい。


05-10-2009 / Monday [長年日記]

_ 遠い街へ二週間の予定で出張。今回はこちらの主治医に健康証明書?を書いてもらったので飛行機にも無事に乗れるはず。夫は県庁の会議が連日続いており、空港へは一人で行くのだが、そのことを下宿の大家さんに話したら、以下お手伝いさんまで含めてみなから「なんという非道!」という感じで非難を浴びることとなった。かわいそうに、それでも会議には絶対出席しないといけないので、そして別にわたしは一人でも大丈夫(というか、一人のほうがあれこれ気を使わなくてよかったりするから)なので、まあまあととりなす喜劇みたいな場面があったりした。

昨日は、朝から小高い丘の上のこども学校の見学。折り紙教室の日だというので折り紙を手土産に車でいってみたところ、体感傾斜にして45度くらいの山道。後部席でしっかり安全ベルトを締めて車にしがみつく。運転手はあきらかにいやそうで、「こんなところ上ったら、すぐガソリンが減るがな」などと文句たらたら。しかし無事に上がってくれた。しばらくこどもらの作ったスクラップブックをみせてもらったり、サイン帳に日本語で挨拶を書いたり、記念撮影をしたりしてから、GPSとかで場所確認。ふもとの小学校まで徒歩で二時間という。ほんとうに何も生えていないところで、大人の足で一時間ほどふもとの草原から、家畜のえさを、おばあさんが運んでいた。10キロはありそうな草。サンダルもしくは裸足である。妊娠してから10キロ太ったわたしもそういう荷物を運んでいると思ってちょっと山道を登って見たが、十歩ほどで息が上がった。家畜は丸々と太っていた。こちらでは牛を飼うのにヤギを食べさせる、というのだそう。ヤギを売って牛の飼料を買う、の意。牛もやせているのか太っているのか、皮がだらりと垂れ下がっている。

まだ朝だったから、丘の上から平野を見下ろすと、平原がずっと眼下に広がっていた。遺跡があちらこちらに見える。しんとした不思議な風景。こども学校に絵本を寄贈しようと考えながら丘を降りて、出張先へのみやげ物などを買いに行った。


18-10-2009 / Sunday [長年日記]

_ 久々の本拠地で充実した日々−いやー、ほんとに毎日、がんばったことでした—を過ごした。二回飛行機を乗り継いで到着してからは、しばらく大学の行事で街で過ごした。久しぶりに会う人もいて、楽しい時間を過ごす一方、やはり体が思い通りに動かず、すぐに疲れてしまい、ほとんどの時間を滞在先の部屋で過ごした。行事が終わってからは、ようやく今回の一番の目的であった山岳地帯へ出発。緩やかではあるがぼこぼこの道のルートを取らず、若干急ではあるが道は比較にならないくらい新しくてまっすぐな山道にルートを取った。途中休憩所でしっかりと昼食を取り、ようやく最後の山越え谷越え。この道も今は敷石が敷かれて、車で最終目的地まで入ることができた。もちろん日本の援助のおかげ。で、お世話になる家や村にあいさつ。標高千メートルを超えているので、とにかく涼しい風が吹く。もう夕方だったのだが、妊娠してから一挙に暑がりになったわたしには極楽であった。夕食は、山の自然をたくさん用意してくださった。おいしくて久しぶりに元気よく食べた。自家焙煎のコーヒーを食後にいただく。妊婦はあまりたくさんカフェインを摂取してはいけないなどと指導されるのだが、ここではどうですかと尋ねると、コーヒーが体に悪いなどというのは、間違ったコーヒーを飲んでいるひとの言葉だ、とのこと。ここのコーヒーのおいしいかったこと。わたしの好みの、酸味がほとんどない、しっかりとしたコーヒーの味のする飲み物だった。ところで昼間からずっと、村中のいたるところで甘くてしっとりした芳香が漂っていた。村の人に聞いてみると、なんとコーヒーの花の香りなのだとか。タバコの花の香りが、タバコの匂いとは似ても似つかぬものであることを知ったときと同じような衝撃を受ける。夕食後、テラスでコーヒーを飲みながら、その花と実の異なりながらも妙なる調和の芳香にうっとりとしながら、いつまでも話は尽きなかった。夜、蚊帳の中で静かな夢を見た。

次の日は奥さんに案内されながら傾斜面に植えられたコーヒー園を歩く。歩きながら自然に芽を出した苗木を集めつつ、上ったり下ったり。たっぷりと歩いて、急流のがけに到着。下をのぞいて思わず、後ずさりして意味もなくコーヒーの木の幹を掴んだ。記念写真を撮ってから、またずっと歩いて、ずっと上流の水田に出た。自然の味をたっぷりと使ったおいしい昼食と夕食。夜もまた静かにコーヒーを飲みながら、皆で話す。

三日目は、おやつと魔法瓶につめたコーヒーを持って、より上の急斜面へ。からからに乾いた草原をしばらく歩いて、もうほとんど草地になっている元の畑の場所へ着く。見た目にはほとんど人の手が入っていない土地。しかししっかりと隣の畑地との境界の石垣が積まれていた。眼下にほそぼそとしかし急流となって流れる川を、またしても恐る恐る眺めながら、記念撮影。おやつを食べながら、試しに夫に電話をしてみたらつながった。今どんなところから電話をかけているかを知ったら、気絶したかもしれない。今度はまた来た道を戻って、竹藪の出口に到着。途中、昼食と夕食になる野菜や果物を収穫しながら帰る。昼からは牛の世話を体験。牛の親子が本当にかわいい。生まれて5日目の牛がよろよろと母牛のそばを歩いている。お臍からは干からびたへその緒が垂れ下がっている。牛の子供はあまり母牛には似ておらず、父牛に似ているのかな、などと妄想。たまたま道端に落ちていたバナナを一枝運びつつ、途中でゼンマイに似た野菜を摘みながら、これを夕食に食べようなどと話す。うちに帰ってまた各戸の屋根裏調査をしたりして、荷物をまとめたりした。夜はまたみなでテラスで話。遠くで犬が吠えた。


19-10-2009 / Monday [長年日記]

_ 山の上にいた間は、毎朝5時半に起きてお湯を沸かしてもらって行水をして、水田地帯を散歩するのを日課としていた。休耕田で牛の家族が草を食べているのを見るのが楽しみで、毎朝、坂を下りた。一時間ばかり、灌漑水路を辿って畦道を歩いて、ときどき急峻な岩肌をのぞかせる山を見上げたりしては、鳥や小動物の鳴き声に耳をすませた。早朝にも甘いコーヒーの花の香りはあたりに満ち満ちており、時々、花を摘んでは蜜を吸った。よく公園のツツジなんかの蜜を吸っては母に叱られたものだ。

最後の日の午前中は、家の裏の窪地の水田へ。盆地の向こう側は厳しい岩肌を見せる崖山である。そのふもとに小さな灌漑が切ってある。この灌漑水路は向こうに小さく見える滝が水源。村から滝へは歩いて15分くらいという。本当はこの滝も見たかったのだが、岩場をよじ登っていくらしい。また今度にする。白いウルチマイのほか、紅米も栽培しているここのご飯は、しっかりとした噛みごたえがあって、本当においしかった。高収穫品種のハイブリッド米はお米も痩せていて、経済的にはよろしいのかもしれないが、食べておいしいものではない。もちろん炊き方にもよるのだろうが。いろいろたくさん話を聞いたし、散歩もたくさんできたし、知りたかったことも知ることができたので、満足して帰路についた。途中、一か所だけ、どうしても寄りたかった開拓村へ。干からびた西部劇の村のような雰囲気で、人相の悪い保安官ならぬ痩せこけた赤い色の犬が吠えるでも威嚇するでもなく、あくまでも感じ悪く近寄ってきて、いきなりころりと足元に寝転がった。番犬としてのつとめを少しは果たしましたよ、というポーズなのか。

戻ってちょっと料金のことで運転手ともめて、あとの時間は知人に又貸しして帰る。疲れた。翌日は半日、横になって、午後になってから外出。小旅行の報告を友人にして情報交換。

その次の日からは海抜0メートル地帯へ向かう。打って変って、暑いこと、暑いこと。いろいろ話を聞いて寝て食べて、お墓の掃除などもしたりして、3日後に無事帰還。

最後はチャイナタウンでいろいろと人に会って話を聞いて、のんびり珈琲飲んだり月餅を食べたりしてなんとか情報収集して帰る。途中、お寺で何度も籤を引きなおす。というのは、籤を解釈してくれる人が「これはよくない」というので。最初の二回はともに65番で大凶。安産祈願をした人にとってはまったくよろしくない結果。ということで解釈のおじいさんの助言に従い、再度、三拝九礼して籤を引いたら大吉が出た。ええんかいな。

荷物まとめて空港へ向かうところ。明日から三日間、また大学でシンポジウム。少し風邪気味で、喉と鼻が猛烈に痛い。扁桃腺が腫れて鼻水が止まらない。疲れ果てたけど、ミジンコさんも喜んでいたと思うよと夫に話したら、「楽しんでいたのはあんただけやで」と冷たく言われた。そうかな。まあとにかくすんごい充実した小旅行でした。あとは書くだけ。それがむずかしくってねえ。。


21-10-2009 / Wednesday [長年日記]

_ シンポジウム。本来の本拠地の大学界隈で開催されるものとは異なり、みなオープニングよりも30分くらい前から会場に来て、着席して待っている。。場所が違えばほんとうに行動も違うんだな。で会場で携帯電話が鳴り出すこともないし、なった電話にそのまま出て、「ハローハロー」などと話し出す人もいなかった。みな文明社会を生きている人のように見えた。国際シンポジウムとはいいつつ、外国人で出席していたのは私を含めて5人。それ以外の200人は某国人。でも使用言語は英語だった。ずっと座っているととても体がしんどかったけれど、なかなか楽しく勉強させていただく。夕方、無事に初日が終わって、歩いて家まで帰ってみた。小一時間で、よい運動になった。

月末に帰国するので、そろそろ準備など。もって帰る荷物はほとんどなし。帰りにまた河童国によって、知人に会う予定になっている。次からは子連れになるかもしれないから、もうしばらくは河童国で遊ぶということもなくなるだろう。そう思うと、結婚したときよりも、独身時代が終わった感がいっぱいになる。


22-10-2009 / Thursday [長年日記]

_ 無事に3日間のシンポジウム終わって、充実。楽しいシンポでした。最終日は、ちょっとえらい人がたくさん登場。みなさん現地語で報告。しかし全員、こちらの喜劇役者も顔負けのギャグやら冗談やら皮肉やらをふんだんにちりばめた話術で、会場はそれまでの二日間の辛気臭い雰囲気を払拭して、楽しい感じになった。初日の心理学の人の発表もとても楽しかったのだが、おなじセッションの人が全員、辛気臭いひとたちばかり—いや、まじめな人たちというべきですね。。—だったので、いまいち、参加者も反応に戸惑う部分があった。

そういえば、参加者の5人に一人は、ネットブックないしはラップトップを持参していた。もちろん場内はワイヤレスな空間。そしてほぼ全員、顔ブックを見ていた。わたしは顔ブックとかつぶやき帖とか全然、知らないのだけど、ほとんどの人が全員、おなじ画面を見ているからついつい覗き込んだら、そのようなページだとわかった。顔ブックは、某国の人々のまさに麻薬的な勢いで魅了しているようで、よるとさわると、みなその話ばかりしている。そして初めて会った人はもれなく、「顔ブック、お持ちですか」とか「顔ブック、やってる?」と聞いてきます。携帯電話がインターネットにつながっていないわたしは、某国でも日本でも化石時代を生きており、まったく話題についていけない。でもとくに困ることもない(と本人だけが思っているのでしょうね、きっと)のである。

一人だけいた招待スピーカーの日本人の先生に挨拶して、また歩いて帰った。これで三日間とも健康的に歩いて帰る。途中、下宿の近くのホテルによって、プールの説明などを聞く。実はこないだ本来の本拠地で、マタニティ水着を買ったのである。といっても日本みたいなツーピース型の妊婦妊婦していないデザインのものはなくて、強烈な花紺の、ワンピース水着。泳いでいる人は全員西洋人で、体型のことなど気にしないでよいから、さっそく夕方にでも泳ぎに行こうと考えている次第。朝は午前6時からあいているとのこと。夕方は人も多そうだから、明日でもよいかな。。

ところで、本来の本拠地の大学で、高村薫の「レディ・ジョーカー」を借りてきた。何年も前に読了したんだけど、いやー、夢中になって読んでしまいました。麻薬的な魅力がありますね。で、意味もなく、インターネットでグリコの事件をいろいろ読み直してみたりして、随分、無駄?かもしれない時間を過ごしてしまいました。

今日のシンポの間中、ミジンコさんはえらく元気に暴れまわっておりました。この人は、①おじさんジョークに反応していた、②アカデミアにさっそく親近感を持っている、③退屈だから、はよ家に帰ろうと訴えていた、のどれを主張していたのでしょうか。わたしがインターネットの前にいるときは、ちっとも動かない。


23-10-2009 / Friday [長年日記]

_ 今回の滞在中、血圧も血液もまったく正常で、低血圧気味なほどだったのだけど、とにかく足が浮腫んでしかたがなかった。登山靴もスニーカーも持ってきていたのだけど、クロックスをよく履いていた。これは軽いしそこそこ歩きやすいのだけど、とにかく足裏が痛くて痛くて仕方がなかった。先日、山岳地帯に行ったときも登山靴もスニーカーももって行かず、クロックスだけ履いていった。新しい本拠地に戻ってから、そろそろ帰国準備ということもあったし、シンポジウムに出ないといけないということもあったので、偽リーボックの黒いスニーカーに足を突っ込んでみた。最初はとにかく痛くて痛くて仕方がなかったけれど、きちんと紐で締めるからか、クロックスよりも遥かに足にフィットして歩きやすいし、何より帰宅して靴を脱いだ後も足が痛くない。運動量も高かったからから、足のむくみも軽減された。夕べは結局、プールには行かず、家でマタニティ・ヨガをしてみたら、とても体の調子がよくなった。寝返りを打ったり起き上がったりという動作がどんどんとしんどくなってきていたから、その負担が軽くなったのは助かった。

ところでこちらでは岩田帯のようなものは一切ないし、マタニティ肌着関係も、ほとんどない。非常に限られた場所で、中国製のものが売られていることがあるが、まるで拘禁道具?みたいなものばかりで、あれは確かにおなかは締めはするものの、きついよなー、という感じがする。人によっては、ほんとにお腹が漫画みたいに前に突き出ているような人を見ることもある。乳幼児の死亡率や産婦の死亡率は、日本と比較にならないくらいに高い場所で、それなりに各国の援助プログラムも入っているようだが、全体的にあまり改善されていないように見える。なんでなんでしょうね。健康とか病気とは依然としてカミの手にゆだねられるべき範疇の問題として認識されていることも、原因なのかなとは思う。宗教病院に行くと、「薬や医師、手術に頼ってもだめです。あなたの祈りが届かなければ」などという標語が張られている。その割にはこちらの人はほんとに薬好きで、売薬を山ほど所有していたりする。健康でいること、病気にかかること、それぞれの因果関係をほとんど考えることなく、サプリメントや薬に手を出しているようだ。だから糖尿病の人が、「健康にいいから緑茶を飲んでいる」とはいいつつ、どっさりと砂糖をぶち込んでいたりするのである。

東洋医学とかオルタナティブ医療という分野がこの国でもひじょうに拡大してきている。西洋医学に鍼灸を取り入れている大学病院ももちろんある。医療の選択範囲が増えはするものの、根本的な食生活やら自分の健康について自分で考えるという発想に関しては、まだまだこれからも開拓の余地が大いにあるなあと思われてならない。


26-10-2009 / Monday [長年日記]

_ サツマイモをふかしたのみたいなのがスーパーのお惣菜コーナーで売られているのを見つけた。ひとつ買ってみる。前にも買って見たことがあるような気がするのだけど、あまり味を覚えていない。ということは可もなく不可もなくだったのだろう。おいしかったりまずかったりしたら、覚えているはずだから。お芋さんが食べたくて仕方がなかったのだ。

イモ類はなんでもおいしいと思う。おでんのおいもさんが懐かしい。からしをいっぱいつけて、ほくほくと熱いのを口に放り込んでやけどしそうな思いをしながら食べてみたい。


27-10-2009 / Tuesday [長年日記]

_ 仕事の最後の仕上げにまた山の上へ。子ども学校の人々と少しだけ意見交換。日本人だからお金を出してくれるだろうという感じでか、ストレートに活動経費を出してほしいと頼まれる。が、こちらもそのようなことは先般見通していたわけで、すぐに用意していた回答を出す。当地の日本人会の親睦バザーで、子どもたちが作っているという手工芸品を出してみてはどうか、一人の日本人ができることは限られているが、大勢の日本人からお金だけではなく、いろいろなアイディアをもらえるように交流してみるのもひとつの方法である、と。冷たいと思われただろうが、どちらか一方が負担に思うような形の活動支援は、どうせ長続きしないのだから。

帰りにスーパーで、「カボチャ・ジャパン」と表示のあるハロウィンのかぼちゃみたいに皮がオレンジ色のかぼちゃを半分、購入。早速、下宿の台所でかぼちゃを炊く。ちょっと砂糖を入れすぎてしまったけど、おいしくホクホクと炊き上がった。鰹節を盛大に振りかけて、炊き立てのご飯と一緒に食べた。夫もおいしいという。

残ったサツマイモは、今朝、いちょう切りにして、トマト、タマネギ、サンドマメとバターで炒めて、溶き卵を投入、スライスチーズを適当に散らして、スパニッシュ・オムレツ風にしてみた。おいしい。自分で作るとそれだけで何でもおいしい。

ちょっとノートを取って本を読んでいたら、本来の本拠地の旧友が今、駅で電車を待っているという。この人とは、先日、本来の本拠地で開かれたシンポジウムでもちょっとすれ違っていた。ただしこのときは、彼が体調が悪く、すぐに帰ってしまったので、挨拶くらいしかできなかったのだった。立ち話で交わした会話で、先般、奥さんと離婚したとのこと。ここも国際結婚組だったから、他人事ではないのだが、ドメスティック結婚でも離婚はあり得るわけで。まあ次を探せ、などと適当なことを言ってあっという間に別れてしまった。

彼の新しい本が出版されたので、大学出版局にいろいろと手続きやら挨拶に来ていたとのこと。隣の大きな街で開催される文化イベントに招待されているとかで、それで電車を待っていたのだという。大急ぎで身支度して夫と一緒に駅まで向かうが、駅のアプローチを歩いているところで、電車到着。いつもは遅れるくせに。電話で、線路沿いのプラットフォームの端っこで手を振るからと連絡。なんとかニアミス。金曜日に戻ってくるらしいが、わたしはその日の朝に帰国するのである。またいつかね、などと話して、電車に手を振って帰ってきた。

_ 駅から戻ってからホテルのプールへ。午前11時半のプールは、読書の欧米人一人を除いては誰もいなかった。一人で独占してひたすら泳ぐ。夫は読書。時々プールから上がって、一緒にジュースを飲んだ。平泳ぎをしているところは、太ったカエルみたいだといわれる。800メートルほど泳ぐ。プールで泳ぐのはほんとに久しぶりのこと。いつも川か海なので、水に浮くかと心配だったけど、普通に浮いた。平泳ぎ50メートル、背泳ぎ50メートルのインターバルをずっと繰り返した。2時ごろプールを辞して、下宿で昼寝。ミジンコさんは、水を得た魚とばかりに気持ちよかったのか、今日、初めて足か手で、勢いよく蹴られた。まるで鼓笛隊で太鼓でも叩いているかのごとく、元気いっぱい。おっかさん、今までやっぱり運動不足だったから、酸素が行き渡っていなかったのかね、という気持ちになる。


28-10-2009 / Wednesday [長年日記]

_ プールが気持ちよい。夕べはミジンコさんが、前代未聞なくらいに激しく動いていた。プールでの有酸素呼吸運動が効いたのか。今朝は役場へ行く夫を送り出してから、わたしも即、プールへ。朝9時半だったけれど、先客が幾足りかすでに泳いでいる。わたしもそろそろとプールに降りて、まずは100メートルを平泳ぎで。続いて50メートルを背泳ぎで。それからプールの縁につかまりながら、バタ足。うつ伏せになったり仰向けになったりして、ばたばたと足を動かした。一旦、水から上がって、パラソルの下で呼吸を整える。すると初老の欧米人男性がやってきて、いきなり水に飛び込んだ。かなり年季の入った長距離遠泳のクロールのフォームで泳ぎだしたのだが、約30分連続して泳いでいた。ゆっくりとしたペースだが、最後までスピードが落ちることもなく、とても優雅である。今日はクロールでも泳いでみようかと思い、わたしもまた水に飛び込んだ。もう一度平泳ぎと背泳ぎで200メートルほど泳いでから、思い切って、クロール。クロールで泳ぐのは本当に久しぶり。息継ぎの仕方を忘れていて、10メートル過ぎまで呼吸なしで泳いだからか、25メートル泳いだ時点で、あぷあぷとおぼれそうになった。なんとか縁につかまって呼吸を整えて、もう一度クロール。今度はちゃんと以前のペースで呼吸ができた。しかしゴーグルをつけずに泳いでいるので、目が開けられず、泳ぐのが少々怖い。目を開けて泳がないと、方向が定まらないし、なんだか水の中って、プールであっても怖いですから。とにかく2時間たっぷりと泳いだ。着替えてから体重を量ったら2キロ減っていた。よい傾向です。


29-10-2009 / Thursday [長年日記]

_ 昨日の夕方、プールから戻ってから最後の挨拶のため山のふもとの村へ。夕方ということもあって、子供や大人たちものんびりとしていた。屋台で紅茶を飲みながら、ずっと話をしていると、会いたかった人がやってきた。最後の挨拶をして5時半ごろ辞す。そのまま夫の実家へ。小一時間かけてゆっくりと帰ったものだから、すっかりと体が強張ってしまって、途中で夕食を食べたものの、もう家にたどり着いたら、自分で着替えもできないくらいに疲れてしまっていた。すぐに寝る。12時間くらい寝て、朝、起きたら、なんと明日、安産祈願の儀礼をするといわゆる義理の母がいう。え。そんなの聞いてないし、そもそも最初から月末には帰国すると話してあったのに。牛小屋で歯磨きしながらどうしてこんなことになるのか、どう説明すべきかと思案していたところ(夫はなにやら役場に呼び出されていなくなっていた)、いわゆる義理の父がやってきて、明日の飛行機は何時だと聞く。朝7時の国際線だから5時にはもう空港にいる、などと話す。憮然とした表情で立ち去るのを眺めつつ。昨日生まれた子牛を眺めつつ、歯磨き終えて家に戻ると、近所の人がもうぞろぞろと手伝いに来ている。お菓子を作ったりご飯を作ったりするのである。。みな口々に安産だといいねー、などという。

安産祈願の儀礼は、実はわたしもとても楽しみにしていた。ところが先日、本来の本拠地に出張した際、もう10年以上も親しくしている家族がそこの土地の安産儀礼をしてくれた。その話を夫にしたところ、義理の両親にも伝わり、これがなんとかれらの逆鱗に触れてしまったのである。曰く、まるでうちの家族が安産を祈願しないみたいではないか、こちらの家族だって嫁の安産を祈願しているのである云々と。。わたしが戻ってからも、義理の両親はひじょうに冷たい他人行儀の態度で、わたしは実はとても困っていたのである。なんといっても昨日今日の付き合いではない気の置けない人々がわたしのためにと算段してくれた儀礼は、別に夫の両親をばかにするとかそういうことはまったくなく、土地ごとにことなる慣習があるのだから、何度おこなってもよいではないかいう考えのもとにおこなってくれたのである。

冷ややかな関係をどうしたものかと夫に聞けば、放っておけばよい、そんなこと気にすることないという返事がきたので、楽しみにはしていたものの、夫の実家のある地域での安産祈願の儀礼はあきらめていたのである。それが今朝の義理の母は、この服を着なさいと、ビニルから新しい服を取り出して、とてもうれしそうにしていたのである。。

結果的には夫のサポートもあり、最初から帰国日はもう決まっていたし、突然、儀礼をするといわれても、もうどうしようもないくらい日程が詰まっている、すみません、もうちょっと早く聞いていたらなんとかなったのですが。。という話をひじょうに丁寧に伝えた。もともとは悪気があるわけでもない義理の両親である。どちらかというと純朴な人々である(義理の母は意地悪ばあさんですけれど。。)。それでなんとかわかってもらえたのだけど朝からひどく気を使う局面が続いたため、とても体調が悪くなり、午前中はずっと寝ていた。プールどころではなかった。下宿に戻ってから、仕事の連絡のためメール屋にきたら、わたしの帰国日はもう大分前から伝えていたにもかかわらず、いくつか重要な用件の依頼メールがきていた。荷物もまだ詰めていないのに、今日は午後10時ごろまで忙しくしないといけないことになった。凹む。


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