_ ついに扇風機を出してきた。今日はお天気もよく、洗濯物も無事に乾く。
_ iPodさんが亡くなられてしまい、また音無生活中。ステレオは、どうも室内にあるなにかと相性が悪いようで、音が鳴らない。ただたんに壊れているともいえるが、すべてのデバイスを使わないでスイッチを入れると、ふつうに鳴る。どうでもよいことですが、音楽を聴きながら自転車に乗ると、視野が狭窄になりますね。たぶん、背後や真水平方向からの音が聞こえなくなるからなのだろうな。こうなると、耳に障害を持っておられる方にとって、商店街なんかの音楽などは、とても迷惑なのかも、などと思う。気配を感じる速度も、遅くなるような気がする。昨日、学生さんが講義中に音楽を聴いていた。そういうのは別に構わない。あと、提出物を出す時だけ来て、名前と「いろいろなことがわかってよかったです」とだけ書いて去る学生さんがいる。こういうの、実はネガティブ・ポイントだということがわからないのかなあ。実はちょっと押し問答になったのだけど、あちらの言い分は、「来たんだから出席じゃん!」というもの。「来たといっても事実上、講義がおわってからなのだし、しかもこんな一文を書かれても、マイナス評価にしかならない」というと、泣き声で「おねがいしますー」という。実はわたし、出席点をつけていないということを知らないのだろう。あと、わたしの名前が入った雑誌のエッセーを配ったときには、「ある女がこういことを考えてこういうことをして、こういう結果になったらしい。世の中の女には、いろいろある」という提出物を出した人がいた。これは、要するに…ねえ。。世の中にはいろいろな学生がいる。
_ アフリカ。ナホトカまで船に乗り、シベリア鉄道でモスクワ。北海の沿岸部経由でパリを目指し、パリから飛行機のこともあれば、船でジブラルタル海峡を越えることもあったそうだ。必然、フランス語圏に到着。一方、当時、パンナムという飛行機が飛んでいたとのこと。羽田ー香港ーコロンボーセイシェルーアジスアベバ。東アフリカは英語圏。ザイールは公用語としてはフランス語だが、スワヒリ語圏が東部に広がっていたらしい。それで日本の霊長類研究が発展したような話らしい。米山先生がまだ5回(その当時にアフリカにすでに5回行っているって十分すごいと思うけど)しかアフリカに来ていないのに、もう伊谷先生は20回以上、アフリカに来られていたという話をききましたと、昨日の話題提供者の先生がお話されたのが印象に強く残っている。1958年、ザイールのあるホテルの宿帳には、今西錦司と梅棹忠夫のサインがあったのだという。自分以外の日本語署名が残されていない宿帳は、よく見る。しかし、わたしの名前など、せいぜい華語系の人に間違われるのが落ちだ。ま、そういうことはどうでもよいのだが、昨日のシンポで思ったことは、やっぱりひょっとして、教養部って大事じゃないかい?ということだったのかも知れないこと。今、教養部を復活させたら、最初の二年で退学する人が激増しそうでもあるが、3.4回生はひまではなくなり、就職活動のあり方も変わるだろうか‥というのは短絡的でしょうか。