_ カーネーションの「ムサシノEP」というミニアルバム?があるんだけど、これ、とてもかっこいい。ジャケットがウサギ写真。ウサギ写真といえばの某人からものすごく久しぶりに電話があって、なんだか話し込んでしまった。基本的に電話はきらいなのだけど、久しぶりにかかってくる電話って、なんだかよいね。某人、相変わらずの夢見る少年の昼と夜だった。
_ 明日、最後の山場をうまいことこなせたら、やっと自分の仕事にかかれる。もう一息だにゃ。
夕方、大ボス、中ボス、秘書さんと一緒にみつ豆を食べた。全員、安堵の顔。ただ、ひとつだけ片付いていないのが、ファックス先生からの案件。まだペンディングにしているのだけど、来週早々、ミーティングで意見出し合うことになる。
_ むずかしい。やっぱり、私はマヌケだ。GISの勉強。
_ 午前中、休み取る。大学に来て休み取るもなにもないのだけど。
昨日のファックス星人先生とは長い付き合いなのだけど、私には全然理解できない行動様式の人。○×学部△■専攻の伝統かつ典型的人物だと人はいうけど、そういうカテゴリーからも大幅に逸脱しているから、もう誰も面倒をみなくなったのだと思う。かわいそう…。そう思わせるなにかがあるようで、これまでも数多の女性陣がタンスの奥にしまい込んだまま黴びてしまったようなボセイホンノウを引っ張り出してきて、「センセイ、私がなんとかしますから」と言ってきたそうな。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。という話を聞かされる。つまり、注意せよ、ということなのだね。。
_ うわぁー、とんでもメール。。なにゆえに、こんな物騒なことを言う?お金がないと研究できないと思っているのだろうな、きっと。ちがうぞ。科学する心は、なぜと問う気持ちから始まるんだ。というわけで、私はなぜこんなリクエストがだされるかを解明するところから、着手しよう。ふう。。
_ 久々に明け方まで仕事。たいした量ではなかったのだけど、日本語の語彙が貧困なので、苦労した。外国語のボキャブラリーはもっと貧困。
そろそろ、異文化=外国という置換をなくす努力をしたほうがいいと本気で思う。身の回りの異文化とは、自分と異なるボキャブラリーを有する集団、くらいにまとめておくほうが、最初から「われわれ」と「かれら」が内包しがちな「日本」と「外国」というくくり方に引きずられなくてよいから。
アン・シャーリーが結婚して最初に住むことになった村では、長老派教会に行く人とメソジストの人々との分断がおもしろおかしく書かれているが、近所の人の中に、「ヨセフを知る人々」とそうでない人々という分類体系を持つ人がいる。これは、アンのことばでいえば、「同類(想像力のある人)」とそうでない人という分類とおなじもの。ヨセフを知る一族というくくりの中には、宗派で人を分けるという思想はない。ボキャブラリーの問題が重視される。多寡ではない。行動様式の内容に基づくその性質だ。明示的に書かれてはいるわけではないので、私が勝手に解釈しているのだけど。人間集団を分類するのは、差別化ではなくて、よりよく理解するための差異化なんだということをもっと叫んでもよいのだと思う。違うからこそ、理解しよう、理解したいと思うわけだ。そう思わない場合もある。とにかく排除しようという方向で動く場合、摩擦が生じる。
昨日、ファックスを送りつけてきた人は、多分、私とは文化を異にする人なのだろう。軽々しく、文化に還元するのは間違っているんだけど。異文化交流と思えば、勉強になる。排除しないで、理解しようという態度が必要なのだな。寛容。慈愛。大ボスの対応を見ていると、そんなことばが浮かんでくる。私はまだまだ排除の理論の信奉者だ。
「おなじ」ということが意味するところを深く考えなさすぎるのかもしれない。「違う」ことは、視覚的にわかりやすい。それに比べて、外見はおなじで中身が違うことの場合、インパクトに欠ける分、どこかでその差異を無意識のうちに好意的に解釈する傾向が高いのだろう。
今日、自分の仕事が片付かなかったら、もっとクビを締めそう。。今日はとんでもファックスととんでも電話が来ないことを祈る。