_ 今回、帰国して数日してからずっと今日まで、こどもが四つん這いの姿勢から、一所懸命、立ち上がろうとしている。毎日、飽きることなく、練習を試みている。どんな絵本を読んであげるよりも、どんなおもちゃで遊ぶよりも、それが一番楽しいといった顔つきをして、明るい声を上げている。より正確には二足歩行のために立ち上がるのではなく、両手両足歩行というのだろうか。生まれたばかりのほ乳類はウシ目やウマ目のこどもが立ち上がろうとしているのに似ている。某国で義理の父が育てている牝牛がこどもを生んだとき、まだひよわな四本の足でよろよろと立ち上がろうとしていたのを思い出した。わが子は思い通りに立ち上がれないとわかると、決まって疲れ果てて泣き出す。まだ後ろ向きにしか進むことができないはいはいで、器用に机の下や椅子の下に入り込んでしまった子どもを救い出し、明日は立てたらいいねえという。子どもはビー玉みたいな目をきらきらさせて、うん、と笑った。
_ 『火星年代記』(新刊)。電車の中でぼちぼちと読んでいる。頭の中でのBGMはやはり/なぜか、ジギースターダスト。
昔、ジェッターマルスという手塚アニメがあって、その始まりの歌の歌詞に、「♪…時は、2015年…♪」というのがあった。2015年といえば5年後。5年後に、少年型アンドロイドロボットがいるとはとても思えない。この歌の歌詞も、『火星年代記』とおなじく、プラス30年ないしは31年で修正すべきなのかもしれない。昔、「未来」だと思っていた「時」が、今、「現在」になっている。不思議といえば不思議。わが子は、もし日本人女性の平均寿命のままに生きるとすれば、22世紀初頭にもまだ生きている可能性がある。22世紀なんてドラえもんの時代ではないか。
いろいろな機械が開発されて、インターネットやiPhoneやら、なんだかすごいよなあと思う。だけど、真にSF的な科学技術の発達としてわたしが期待してしまうのは、やはりテレパシーとかテレポーテーションかもしれない。超自然科学ではなくて、物理学的科学としてこれが解明されて汎用化されたならば、やっぱりすごいと思うだろうなあ。なので、やっぱりどこでもドアとかほんやくこんにゃくの到来を待ちたいわけである。一休さんにはせいぜいドラえもんをたっぷりと読ませようか。