_ 10月になった。今学期は学生の数がとても多くて、8月の終わりからずっとてんてこ舞いをしている。小学校準備学校に入学した子どもの学校が弁当持参ということもあって、毎朝3時半起きである。バスが7時前に迎えに来るから、それまでになにもかも身支度も整えておかなければならないのだが、肝心の子どもがぎりぎりの6時にしか起きないという体たらくの上、寝起きがすこぶる悪いのである。毎朝、金切声をあげる子どもとわたしとで、その時間帯の数時間だけで、一日が終わった気がするほどである。
子どもの学校は、いいのか悪いのか全然わからない。今のところ、判断を保留している。世間的には「とてもいい学校」とされているようだが、ガイコクジンのわたしにとってはまるっきり理解できないふしぎなシステムがあったり、子どもたちへの連絡は基本的にPTAのクラス長のおかあさんからWhats appとかいう賢い電話のアプリケーションで伝えられることになっていたりするのである。賢い電話を持っていないわたしは当然のごとく、すべての情報網からとりこぼされていて、そのことがわかるのに1か月かかったのだ。普通、どうもこの子の家には連絡がいってないんとちゃうか・・・とか、想像がつくんじゃなかろうかと思うのだ。しかし、そういうふうには考えられないようで、「ええ、賢い電話を持っていない人がいるの?!」という方向に、物事は流れるのである。この件については、幸いなことに、賢い電話を持たない主義の人は大学に勤める人に多いことが認知されている状況がこちらの社会にはある(日本もかな)。それでなんとか別ルート、すなわちガラケーのテキストメールで連絡してくれるように手配してもらえたのだった。まあほかにもいろいろあるんだけど、またそのうちに。
先日、インターネット会社の連絡で、新しい4GLTEのWi-Fiモデムを、今使っているモデムと引き換えに通常価格の半額で交換するというお知らせが来た。それでそのプロモーションの最終日に展示所へ行って、交換をしてもらった。嘘のように早くなった。もうずっとインターネットから遠ざかっていたのだけど、さすがにこれだけ早いとなると、ストレスもかからないから、気軽になんでも調べられるようになった。家で授業の準備もできる。こういう経験をすると、賢い電話を持たない生活と、持った生活の違いというのも、なんとなく想像できなくもないのだけど
まだもう少し、時代に逆らっておこうと思う。とくに理由はないのだけど。昨日から、友だちに借りた『遠い太鼓』(村上春樹)を読んでいるので、余計にそんなふうに思っている。とにかく、このエッセーが書かれた1986年からの3年間て、まだインターネットも黎明期も黎明期、日本ではほとんどまだ誰も知らないという時代で、イタリアでは白黒テレビの新品が売られていた時代だったのである。たかだか30年あまりで、有線電話すらもう持たない世帯が出てくるなんて、どこの誰が想像できただろうか。今から30年後、どんな世の中になっているのだろうか。