_ 今日もしゃべりすぎ。笑いの間を取れるかどうか不安になってしまうので、しゃべり続けてしまうのだと思う。おかげで、前列に陣取るくせにいつも突っ伏していた学生さんが、今日はずっと起きていた。しかも今日は****を連発したので、寝ている場合じゃない的状況だったのだと思う。
_ 自分は誰?という問いかけをいつもしながら、自分の研究に関わることを考えているわけだけど、「今日から○×国の国籍が与えられますので、○×人になってください」と言われたら、たとえそこが「祖国」であっても当惑するだろうなと思う。どんな説明をすれば納得させることができるのだろうか、どんな受け止め方が想定されるのだろうか、私に想像もつかない。あらかじめいくつかのアイデンティティが与えられていて、状況次第にそれらを使い分けるという場合ならば、なんとなく想像がつく。パスポートを使い分けたり、自分の出身地を言い換えたりすることは、こんがらなければ、案外、スムーズに行くものである。過去や現在の自分を否定するのではなく、そういうのがあって、今の自分があるのだという受け止め方をするしか、自分には思いつかない。どんなにひどい場所であったとしても、生まれた場所を否定するのは、困難が伴うものだと思う。ゆっくりと、新しい状況になじんでいくことができますようにと思うばかりでだ。
_ 河原でお弁当を食べていたら、とんびが突然、後ろから急降下してきたみたいで、あっさりとお弁当を奪われてしまいました。ものすごく上手に。くやしいとか怖かったとかそういうのよりも、なんて上手なんだろうと、たいへん感動してしまった。これがカラスだったら、意味もなく、腹立たしいだけだったと思うけど、とんびはひじょうに上品に、熟練した掏摸師みたいに私のお弁当箱を、くわえていったのです。とんびにあぶらあげを奪われた私でした。
ちなみに私はそのとき、お茶を飲もうと思って、お弁当箱を持った右手を、ちょっと体の横に向かって、差し出していたのでした。ちゃんとお弁当箱を膝の上に置いておけばよかったのに。そう思ったら、ちょっと悔しくなってきました。お弁当箱のふたは、なんだか無意味な哲学上の存在のように、お箸と共に残されました。お箸はたまたま割り箸だったし、ふたは役割がなくなりましたので、あっさりと河原のゴミ箱に捨ててきました。どことなく腑に落ちない思いがしましたが、やっぱりとんびの勝ち。
_ 某日。久方ぶりに某博物館へ。ウメサオタダオ展を見に行く。大学一回生から学振PDになるまでの足かけ9年余り、アルバイト要員として長らくお世話になった場所で、いろいろな人とも久しぶりにお会いした。生前の大先生にも何度もお目にかかったことはあったが、お話はしたことはない。なぜか運転手のおじさまに可愛がられていたので、ときどき、車に乗せていただいて、公園の中をドライブに連れて行っていただいたりすることがあった。といっても、年に一、二回だったけど。そういうノスタルジイも含まれるからだったのだけど、どちらかというと地味目の展示の、特にフィールドノートやらカードのコピーを手にとって読んでいると、もうそれだけで、万感の思いが迫ってきて、あれこれあれこれ考えた。わたしのノートはとても人様に公開できるような代物ではないけれど、ちょっと似ているところもあって、密かにうれしいと思ったところもあったり。いろいろ、いろいろな思いが頭の中に浮かんでは消えていく瞬間に、ああ今のこの時にノートをもっていないなんて、やっぱりわたしは終わっているよなあ、なんて改めて思ったりしたけれど、なんか違う別の感慨もあったりして、全体的に元気に気分になった。久しぶりの常設展示も、結構、大きな入れ替えもあったけれど、わたしの好きな展示コーナーは、ほとんど変わってなくて、これもまたノスタルジイに浸る。子どもも、ほとんど人のいない館内を好きに走り回って、言語コーナーのはらぺこあおむしの前では、根が生えたように動かなくなってしまった。そしてこれまた感慨深かったのは、引き離しても引き離しても、子どもが舞い戻ってべったり顔をつけて見入っていた展示コーナーが、かつてわたしがかかわった資料であったことだった。子どもにもその面白さがわかるんだろうか。もっともっとじっくりとみたかったけれど、それでも朝から出かけてもう午後三時半になっていた。大急ぎで挨拶を済ませて、バラ園をちょっと見て帰宅の途に。子どもは疲れて、わたしも大いに疲れて、帰りの電車では二人して爆睡した。
ちょっとことばにまとめられないくらい、頭の中がすっきりとした感じでいっぱい。行ってよかった。
_ 細切れにこの日記を書いているので、書き始めたときと書き終わったときとで、温度差があったり、なんだか終始一貫していなかったりして恥ずかしい思いをしていますが、アガサ・クリスティはほとんどはずれることはないし、はずれたとしてもなんというのか、弘法にも筆の誤りとか猿も木から落ちたんだなと思っておしまい、、ということを書きたかったのに、書き終わったときはそんなことも忘れていたという体たらくでありました。もっともクリスティの小説は、読むのも辛いような陰惨な殺人は、ほとんどありませんというのが気に入っている。そういう感じで読んでいるので、クリスティの中でもっとも好きなのが「春にして君を離れ」だというのも当然なのでしょうか。この小説はある意味、殺人事件なんかよりももっともっと冷酷である。何に対して冷酷なのか。書き手の突き放し方だとも言えるし、読み手が主人公をぐっと下に見下ろすような高見にいるような錯覚を与えてくれるところだともいえる。実際、こんな愚かな中年女性は困ったもんやね、、なんて笑って読了する人もいるだろうけれど、多くの人は、心の底で(いやいや、これってわたしのことだよなー)なんて思ったりするのではなかろうか。。もしそう思わないで読了できたとしたら、それは幸せなことでもあり、不幸なことでもあるように思う。でも結局、主人公は救われないわけで(もちろん、本人は自分が救われるとか救われないとか気にするタイプではない:そうなりかけたとはいえるが)。クリスティの小説は全部読んでみたい。とくに、メアリ・ウェストマコット名義で書かれたものを。
ポアロかミス・マープルといわれれば、断然、後者。でも、トミーとタペンスものも読んでいて楽しい。しかし自分の一番好きな推理モノは、やはりドロシー・セイヤーズかなと思う。
_ ブリラン [箱ごと持っていかれたのですか! 私も以前、浜辺でお弁当食べていた際、とんびに背後からやられましたが、 ああいう瞬間っ..]
_ 雪見 [っていうか、とんびに負けないよう大事なお弁当はちゃんと守ってくださいよー<お二人さん]
_ ね [底の深いのではなくて、わりと薄いタッパーだったので、くわえていけたのでしょうねえ。 確かに、ほんとに何が起こったか瞬..]