_ なんというのか、今日はこちらでは平日なので、普通に出勤している。ところが明日からはクリスマス休暇でもある。だから大学に来ている人はあまりいない。というか、誰もいない。たまたまクリスマス休暇が週末にかかっているからなのだけど。なんだかバカ正直に出勤して損をした…という考え方もあるか。しかし試験問題を作る必要があるわけで、これはこれでOKとしたものだろう。
あと一働きして、今日は早弁…じゃなくて、早く切り上げて帰ろう。
_ 来週で今学期が終了する。クリスマス休暇が済めば、すぐに学年末試験が始まる。それがおわれば約1か月の休暇があって、2月の最終週からまた新学期が始まる。元日の正月気分などというものはこちらにはまったくないから、また大使館からは人混みの多い場所には行ってくれるなという御触れも届いているから、新年はむしろ旧正月のほうを祝うことになるだろう。こちらは国家行事だから、繁華街の警備もしっかりとしているだろうから、比較的、安全…だろうから。旧正月には毎年、布袋戯(ぽてひ)という人形劇がチャイナタウンの旧正月にやってくる。これを楽しみにしているのだが、去年は夜はずっと雨が降り続いたため、見逃してしまった。まだ結婚する前も、よく見に行ったものだった。真っ赤に飾り付けられた街のあちらこちらを見ていると、日本の正月とは似ても似つかぬ様子でありながらも、なにか晴れやかな気持ちがしたりするもので、それは西洋式のハッピーニューイヤーともまた違う匂いもする。赤いポチ袋にお金を入れて、中華の獅子舞の口にくわえさせたり、長いドラゴンが舞うのを二階の窓から眺めたり、中華寺院に行ってなんだかわからないけれどお祈りをして線香に火をつけたりしていると、どことなく新年気分も盛り上がってくるというものだ。
今日は久しぶりに朝からからりと晴れ渡った空で、子どもと一緒に大家さんの家の庭の大きな木の下でままごとをした。赤い小さな実でたくさん料理を作った。さああと一週間、なんとかがんばろう。
_ 11月は全然日記を書かなかったんだなあ。。慌ただしく過ぎちゃったからか。
そんな間にも、人に貸してもらった本を一挙に読んだりしたりしていた。それができたのは、子どもがまた原因不明の病気にかかったため、一週間、仕事を休むことになったからだった。子どもの病気の原因は、まったくもってして不明。しかし同じ時期に同級生たちも似たような症状で学校を休んだりしていたらしいので、なにかの感染症だったのだと思う。血液検査をしてもなにもでなかったとか、毎日熱が40度近くになるのに、症状はそれ以外にまったくなくて、咳も消化器系の問題も何もなかったのだった。子どもの看病をしながら、怒涛の勢いで本を読んだ。『サラバ!』(西加奈子)と『鹿の王』(上橋菜穂子)が面白かった。『リバース』(湊かなえ)の読後感の悪さはなんとも言えないものがあったけれど、読んでいる間は他のことを考えるまもなくただひたすらページを繰った。本を読んでいるときだけが、自分が生きていると実感できる時間だったなどというのは大げさに過ぎるだろうか。『サラバ!』は、いつかまたゆっくりと読み返したいと思った。
_ 旧知の人と会うので、手土産を買いに街へ。2つある王宮のうちの小さいほうの前庭で、なにやらお祭りらしきものが開かれていた。こういう情報は、全然、普通には伝わってこないのである。うちは地方紙じゃなくて全国紙を読んでいるということもよくないのかと思うのだけど、とにかくこういう「何月何日に、どこそこでなにやらがあるでえー」という情報は、ピンからキリまでなにもかも口コミなのである。口コミネットワークに入っていないと、徹底的に情報は入ってこない。はい、端的に言って、寂しいことです。ちょっと気落ちしておみやげを買って、ああ、こんなお祭り、踊り好きの子どもはきっと見たかっただろうなあ、、、なんて思ったりしたのであった。
ちょっと訳ありの学生の、指導教官でもなんでもないのだが、心の指導教官になっている。学生は、本来の指導教官のところよりも足繁く、わたしのところに来る。で、一度来たら、2時間くらい話していく。それは全然、構わないのだが、本来の指導教官がどう思っているかを考えると、どうすべきかと考えないわけに行かなくなってくるほどによく来る。この学生は、とにかく並み居る教員よりも遥かに日本語がうまい。うまいとか下手とかそういうレベルを越えて、日本語を理解している。作文など、今時の日本人大学生などとは比べ物にならないほど、うまい。修辞の技術も、普通のレベルを越えている。こういう天才がまれにいるんだよなあと、時々、同僚の先生たちに、この学生のずば抜けた才能について語り合いたいと思って話を振るのだが、これがまた、みな徹底的に無視をするのである。その気持はわからないでもない。先生たちにすればさぞかし面白くないことだろう。でも、こういう人が将来的に学科に来てくれれば、それはそれは素晴らしいことになると思うのだけど、この国では突出した才能は、徹底的に妬まれるところなのである。だから、外交官にでもなればと、いつも話している。わざわざ虎穴に入って、潰される必要はないものなあ。なんとかしてあげたいけど、これだけできるから留学する必要もないなどと言われたりするのも、気の毒な限りである。うまくいかないものなのだなあ。。
_ たまたま入手した『図書館戦争』が面白くて、いつのまにかシリーズを全部手に入れて、折に触れて読むようになった。はじめのうちは、作者の独特の日本語遣いがどうしてもなじめず(今でもやっぱり、これはどうかな・・・という表現はいくつかある)、頭がいたくなったのだけど、これも一つの日本語表現と思って読むと、やっぱりこういう日本語は外国人の日本語学習者には絶対に書けないよな…などとあれこれ感じるのであった。そんなふうに思うこと自体もおもしろい。話自体、面白いと思うんだけど、どことなく、違和感は確かにある。メインの登場人物意外の登場人物がほとんどいない。それが違和感といえば違和感でもあるのだけど、もううるさいことを考えずに読むようにしている。なにしろ読むものがほとんどないから、もう仕方がないのである。なんだって読む。でも、やっぱりどうしても読めないものもあるんだけど。。日本から来る人に頼んで持ってきてもらった多和田葉子の日記が面白くて、早く終わらないように、ちびちび読んでいる。その中に、多和田葉子が宮部みゆきの小説を読んだという記述があった。なんと、多和田さんも宮部みゆきを読むのか!と驚いてしまったり。宮部みゆきは面白いと思う。でも、多和田さんが面白いと思う視点は、やはりなんというのか、いかにも多和田さんらしいポイントであって、なるほどなあと思った。それで、多和田さんの日記を読みながら、なんとなく水村美苗の『日本語が亡びる時』の第1章を思い出した。なんとなく、似ていると思ったのは、いかにも「作家」らしい視点とか文体の温度とか、だ。文体の温度ってなんだ?とも思うのだけど、葉っぱと苗って、やっぱり似ているから、なにか共有されるものがあるのかもしれない。なんて、こじつけて解釈している。
ああ、自由に次から次へと、本がよみたい。。