_ 某日。何につけ、人と比べないでいることはなかなかにむずかしいものです(笑)。毎日、暗く落ち込んでいくほうが気楽な気さえしてきている。でも少しずつ、努力。昨日の自分と比べてどうだったかと考えるようにして、がんばって生きていこう。昨日より今日、今日よりも明日。ちっちゃな世界でかまわない。
_ 某国の客間の風景と言えば、国家元首の肖像写真と並んで、家族写真である。わたしの下宿の大家さんの居間と客間は、ぐるりと四方を5人の子どもの大学卒業写真と結婚写真、そしてそのたび毎に撮影される家族写真で囲まれている。そのたび毎にみな伝統衣装を着衣の上、決められた順序で兄弟姉妹が母親を囲んで立ったり椅子に着席していたりする。この家の父親あるいは夫は、不在である。あるとき、家を出て行ったのだという。末妹が生まれたすぐに、首都に出て行ったきり、帰ってこなくなったのだという。とはいえ、所在は確認されており、それどころか、妻である大家さん以外のすべての子どもは、夜汽車に乗って、それぞれの人生のある時点において、単独で父親の元に家出めいた形で駆け込んだ経験があるのだという。そのことを母親である大家さんは大人になるために必要なステップと考え、子どもを叱るとか泣き暮らすとか、そういうことは一切しなかった。父親である大家さんの夫は、船乗りであり、著名な建築家であり、国家プロジェクトに対するアドバイザーであるという。80歳を越えた今日においてもなお現役として活躍している。大家さんがその妻であるということは、ほとんどの人がもう忘れてしまっているともいう。なぜならば夫が家を出て行ってからすでに40年余り。知己の人びとですら離婚していると思い込んでいるくらいなのだが、実はかれらはずっと別居しているだけなのである。
客間と居間の壁にぐるりと掛けられた数十枚の家族写真には、決して写されていない大家さんの夫は、そこにいないことで一層、顕在化された存在となっている。美貌の妻と聡明な5人の子どもを残し、別の女性と結婚するでもなく所在を隠すでもなく、ある日、ふと出て行ってしまった大家さんの夫である。一体なにがあったのか、尋ねたところで、凡人であるわたしにはわからないかもしれない。ある午後に、大家さんの客間のピアノを弾かせてもらいながら、迫り来る家族写真の威力に、見えない家族の歴史を見たような気がした。
大家さんは、どうやって生きてきたのか。きっとまとまった財産もあったのだと思うのだが、無理をせず、身の回りにあるものを売ったり買ったりまた売ったりした資本を少しずつ増やしていき、自分のお金で土地を買い、子どもを全員大学に入れたという。子どもは全員、地元の国立大学を卒業し、全員がそれなりのポジションについている。そこに父親の見えない力があったかもしれないし、なかったかもしれないけれど、そういう経験を持つ大家さんなので、これまでにこの家に住んできた多くの店子からは絶大なる信頼と讃辞を勝ち得ており、その末席を汚すわたしもまた尊敬してやまない。淡々と強く生きて、恨み言を一切言わないこと。すごいことである。80歳になった今、某国の教育制度や社会福祉について明確な意見を持ち、顔ブックやつぶやき帳の功罪について議論をするのが好きである。わたしにはいろいろなところに母がいるのだが、この一番年長の母ほどいつも新鮮で若い考え方の人もいないように思う。
_ 蹴上まで革製製本展を見に行く。偶然、製本の歴史に関する説明が始まったところで、思いがけず興味深い話を聞くことができた。ヨーロッパの市民革命あたりまでは、本といえば製本前の印刷した紙の状態で売られており、それを各「家」(メディチ家とかナポレオン家とかそういう単位)の決まった色や背表紙の文字の色などを入れて完成させたものを、本屋が届けること、それが本を買うということであったそうだ。だからどんな分野の本でも、色や装丁の素材は統一されており、本の内容が装丁に反映されることはなかったという。よく天小口などに金箔などを貼っている本があるが、あれは金持ちの現れとかそういうことではなく、本を丈夫に長持ちさせるための処置なのだそうだ。虫が入りにくい上に小口のところが全体に非常になめらかに処理されているため、ほこりもたまりにくいという。元は、迫害されていたような宗教の啓典など、地下やら洞窟やらそういうところで読むにあたっての措置だったらしい。モロッコ皮はいまではインドで生産されるようになっているとも聞いた。
本の内容に即したような装丁がなされるようになったのは、印刷された本が書店に並ぶような時代になってからのことだとか。それまでは何々家蔵書とわかるような装丁が中心だったため、個性的な装丁というのはあまりなかったらしい。そういう細かい、そしてなにかあらゆる想像力を駆使することを刺激されるような話を聞いた。
欧州では革装丁の本の修復職人がいて、そのギルドで訓練を受けた人が、昔、図書館にいた。ギルドということばの響き。手に職があるというのは素晴らしいことよなあと思いつつ、帰宅。よいお天気だった。緑の葉や花の芳香とともに、新しい本の扉を開いたときの匂いがどこからともなく漂ってくるような気がした。
_ ハゴロモジャスミンのつぼみ。庭や散歩途中の家の軒先にあるのを眺めつつ、あれこれと思いを馳せる。人見知りをしはじめたカルガモさん、昨日は39度の熱を出し、慌てて大学から家にとんぼ返りをした。小さい子の熱はすぐに下がることもあるから大丈夫と言われたのだけど、38度台後半を行ったり来たりするので、夕方、かかりつけ病院へ向かった。病院の待合室で検温すると少しだけ下がっている。カルガモさんはどういうわけか、安心しきった顔つきで、寝たり起きたり。小一時間ほど待って診察室へ。看護師さんが、「まあ〜、なんとおおきなおめめ!外人さんなのかな〜」という。純和風の顔をしているカルガモさんなのだが、日頃、子どもをたくさん見ている職業の人の目には、そういうふうにみえるのだろうか。人見知りモードに入っていたはずだったのに、先生にも看護師さんにも愛嬌を振りまく。これだけ笑えるということは熱はあるけれど大丈夫だと思います、でもまだ4ヶ月だから本来は免疫があるため、病気には罹らないはず。罹りかけているのかわかりませんが、明日の朝もまだ熱があるようだったら、もう一度、来院してください、と言われた。夜中も高熱が続くかもしれません。が、お母さんがそれに耐えられるか。今はまだ発熱が始まってから数時間です。様子を見るという心構えがあるようならば、そのほうがいいでしょう。
そして今朝、氷枕やら熱冷まし剤の効果か、頭が冷えて気持ちよく眠れた様子。珍しく、夜中の授乳もなかった。機嫌は悪くなかったけれど、すっかりと甘えっ子モードが全開した様子で、わたしが朝ご飯を食べるのも待てない。抱っこしたまま、パンを齧った。朝食後、また一緒に添い寝をして、雨の朝を過ごした。お昼過ぎ、熱はすっかり下がり、いつもの元気なカルガモさんに戻った。
_ 毎日の散歩で、近所の氏子神社でこどもの日の神事があることを知っていたはずだったのに、すっかりと忘れてしまっていた。氏子神社ではない、人気のない、無人の小さな神社に散歩のルートを取ってしまったのだ。カルガモさんにとっては初めてのこどもの日だというのに、大失敗。きっと来年は行こうねと、謝った。
連休の間、母方の親戚一同がカルガモさんのために集まってくれた。出産直後は、冬の一番寒い時期ということもあって、近所の親戚は病院や家に来てくれたのだけど、少し大きくなったカルガモさんの御披露目を兼ねた機会に、みなが集まってくれたのだった。カルガモさんは終始ご機嫌で、わたしの基準からすれば奇声といってもよいような妙ちきりんな大声を喉の奥から出して、きゃっきゃとはしゃいでいた。この数年間は、わたしは特に、某国に滞在していた期間がながかったから、イトコたちの近況なども実はあまり知らなかったのだが、キョウダイが多いと、結婚する人しない人、離婚する人再婚する人などもやはりいて、へええ〜と驚いたりして、親戚たちの話を聞いていた。
そういう流れで当然出てくる話題として、お墓をどうするかという話があった。母方の本家は三姉妹でわたしの祖母が長女である。が、別に遠縁から養子を迎えて家を継がせた。そちらが本家といわれているのだが、その孫の世代(わたしの世代)は女系かつ独身・おそらくこれからも結婚しなさそうで、もう子どもは生まないだろうという状況になっているのだそうだ。祖母と結婚した祖父の流れが分家と呼ばれているのだが、こちらもそういう事情で、母の兄弟は女系かつ未婚のイトコたちばかりとなってしまっている。だれがお墓の管理をするかという話題が出てきてもおかしくない状況で、どうするかな〜という話を数年前からしていたのだという。と、祖父の祥月命日におっさん(お坊さんののこと)が次のような話をしたとのこと。そのお寺さんでも檀家さんらから子どもが地元を離れてしまって帰る予定もなかったり、結婚しないとか、子どもを生まないとか、子どもがいてももう面倒なことはしたくないとかで、なんとかよい方法はないかという相談が増えてきた。なのでお寺では、お墓を解体してその墓石で塔を建て、そこにお参りするようなことを準備してある。おたくはどうされますかいな、という内容であったらしい。そういえば、最近、祖父のお墓参りにいったとき、なんとなくまわりの景色が風通しよくなっているような気がして、どうしたのかなあとは思っていた。それはすでにお墓をのかしたからであったのだろう。
先日集まった親戚の中ではすでに合意ができていて、お墓をのかす方向でまとまりそうだという。もとよりわたしは本家も分家も関係ない立場だし、うちの親も散骨派なので、親戚の話を傾聴しているだけだった。そうしながら考えていたのは、某国だったらどうなるのかなということ。一人が亡くなったら、その村の人が全員、文字通り、赤ん坊から老人までが葬儀に参列する土地がらである。別に出欠をとるわけではないのだが、わたしも街から呼び戻されて、末席に連なったことがあった。初七日にはまた村の男性だけが全員、亡き人の家に集まり、みなで読経する。墓所は先祖代々、すくなくとも四代前あたりまでは、その名前と配偶者とが当代の当主に記憶されており、ちょっとしたエピソードとともに語り継がれている。わたしもきっとその墓所に入るのだと思う。法要は、100回忌までは普通におこなわれる。少なくとも、現在までにおいては、そういう行事がずっとなんの疑問ももたれることなく、続けられてきている。生まれるときも死ぬときも、人間は決してひとりではなく、どこかに属しているんだなあ。そう思うと、死んだ後くらい、のんびり体を伸ばしてゆっくりしたいなどといった発言も、納得できるような気がする。そういったことを考えながら、一人、黙々とお寿司に箸を運び、きゃっきゃとはしゃぎながら、親戚たちの膝の上を次から次へと渡っているカルガモさんを遠目で見ていたりしていたのだった。
_ pyonpyon21 [こんばんは。カルガモさんのお熱、引いてなによりでした。 はらはらしながら読ませていただきましたが、 >>朝食後、..]
_ ね [pyonpyon21さん、こんばんは、お見舞いありがとうございます。 はじめてのことで、わたしもちょっとびっくりして..]