_ 子どもの耳の治療のことと、某国へ行くにも日本を引き払うにもお金がないから何もできないということを説明してあるので、わかってくれていると思っていたのだが、原発問題が地震津波よりも国際的な関心を高めるようになって以来、夫が帰ってこいと、日に何度も電話してくるようになった。心配していることはわかるけれど、海外ではそれほどまでに原発問題が大きく報道されているのか。夫の話しぶりでは、わたしは好きにしたらいいけど、子どもは安全な場所に移せというニュアンスも感じられ、普段はテレビニュースなど見ない義理の両親の後押しもあるようで、なかなか抜き差しならない状況になってきた。説明しても、「核は怖いぞ」なぞという。そういう話になっているのか。説明しても聞く耳持たぬ様子の夫の気持ちはほんとによくわかるのだけど。。
_ いろいろとにかく節約モードということで、数か月前に化粧水を使い切って以来、新しいのを買わないできた。去年の秋ごろにNHKの情報番組で化粧水は使わなくも大丈夫、その代り、しっかりと保湿するためにクリームを塗ったり乳液をたっぷり使えばよいということを知った。手持ちのクリームと乳液だけでも、乾燥厳しい冬を乗り切ったし、むしろ、ぱさぱさしなくなったから、かえってよかったのかもしれない。手持ちのものを使い切った今は、清水の舞台から飛び降りて買った無印料品のホホバオイル(714円)で、これを重宝している。何しろ一滴でよいから、まったく減らない。そして、リンスも買わなくしたので、その代りに洗髪後、髪に擦り込んでいる。意外にも、髪はふんわりするようになったし、絡みもしなくなった。手足にも擦り込むようになったら、ハンドクリームもいらなくなった。もともと、化粧関係に費やす支出は少なかったから、ここを節約してもあまり意味がないのだけど、へえ〜、なくても平気なんだなあという発見があったのはうれしいことでした。多分、もっといろいろ節約できるはずな気がしている。
_ 朝、顔を洗って身支度を整えようとすると、子どもがすかさず、化粧道具をしまってあるキャビネットの前にてけてけと歩いていき、おかあたん、はやく、というように、待ち構えている。キャビネットを開けて、ごしごし、ぱたぱた、かきかきとしていると、わたちにもしてちょうだいと催促してくる。少なさと、いまだにまったくほとんど伸びてこない頭髪の具合から、2歳の子にも「あかちゃんがいる」と言われたりする子どもの、ちょろちょろとしか生えていない髪に、ピン留めをつけたりすると、狂喜して、鏡でみせてくれと飛び跳ねてくる。抱き上げて鏡をのぞけば、似ているんだか似ていないんだか、二人の顔が映っていて、どちらも気恥ずかしくなって、ぎご地なく笑ってみる。子どもは毎日、大きくなっていく。靴がもうきつくなってしまっている。帽子や洋服は手作りができるけれど、母はペリーヌみたいに靴を手作りできるかどうかわからない。でもがんばって、なにかイネ科の草本を収穫に、子どもを連れて河川敷にでもいってみるか。や、イネ科じゃなくて、ツタみたいなツル性植物か。野山里山にあるもので、いろいろと作ってみようかな。
_ あと個人的に関心をよせていることが二点。ひとつめは、欧米はもとより、東南アジア各国から、今回の「日本」の災害に対して、たくさんの支援が届けられていること。海外での報道は、日本での発表などとほぼリアルタイムであることも、関心を持続させるということになったのだろうし、なによりも地球規模でのエネルギー問題を再考する契機になったことが大きい。わたしも知らなかったのだが、東南アジアでも原子力発電所の建設が本格的に準備されているとのこと、日本の技術と保全体制、発電所近辺の災害対策をもってしても、これだけの被害が出て、しかもまだ解決されていない。対岸の火事ではなく、それぞれの国のエネルギー問題と災害対策の見直しを促す結果となったこともあっての、日本への関心なのかもしれない。このことを深く考えるようになった。これから日本での出来事に関して、多くの国から調査研究に訪れる人が出てくるだろう。エネルギー問題や防災対策にとどまらず、避難所運営に関連した災害時医療体制のあり方、民間ボランティアと行政などとの連携、コミュニティ再建あるいは統合など。それともちろん復興再生計画と防災対策をどんなふうに構築するかといったことに、誰もが関心を持つだろうと思う。
もうひとつは、「被災地のためになんとか、なにかをしてあげたい」と、普通の生活を送っている誰もが、一度は(あるいは一瞬でもよいのだけど)感じたその気持ちのこと。これをいかに持ち続けてもらえるのだろうかと考える。これからの道のりは長い。復興のどの時点で、どのようにかかわることができるのか、そういった情報を専門家がどんどんと提示していくことが必要だなとも思う。それが、関心を持続させることにもつながるからだ。一方で、義捐金を送ったから、自分のコミットは十分に果たしたという人がいても、全然、おかしくないと思う。自分はこんなにかかわっているのにあの人は、、というように思ってしまうことも、人間だからあるかもしれない。しかし、そういったことをなるたけ最小限に抑えるために、災害地支援に関わる研究者がいるんじゃないかと思う。つまり、どんどんと情報を出し続けることだ。垂れ流すのではなく、きちんと整理された情報を、わかりやすく出し続けることだ。そのためのプラットフォームを、ユニバーサルアクセスで(つまり、インターネットだけに頼りすぎないということ;印刷媒体も有効に使うべき)情報発信できるように、整備することがわれわれ(わたしは違うんですが:笑)にできることなんだろうなと思う。
この二点でいいたかったことは、膨大な量の情報の整理と、できるだけ正確な情報の共有という問題を解決することもまた、復興支援に関わるということだということなのかもしれない。
もう、思っていたことは全部まとめてここに垂れ流したので、今日で震災関連のことを書くのは終わります。なんといっても、生活保護を受けるか受けないかの瀬戸際にいる自分の復興支援を優先しないといけないのでありました。(了)
_ 研究室代わりに使っていた部屋の片づけで大学に来ている。道中、考えていたこと。今回の被災の状況が、激甚地震津波による破壊的な状況であることを考えれば、今、「復興」ということばを現実化する方向で動くのは早急であるように思う。もちろん政府や地方行政は、そのことを把握しているはずだと思う。少なくとも、向こう二カ月間(災害発生から大体3カ月間か)を、緊急救援支援期だとすれば(これは一般的な災害における考え方なのだけど)、仮設住宅をどこに建設するかという問題には、かならず、今後の防災対策をいかに配置するかという問題の解決が伴われなければならない。都市計画と防災対策の両方ということ。個別の町や市が、独自に取り組むという考え方では、追いつかない自然災害があるということが、今回わかった。なのだから、災害対策インフラのハードな部分に関しては、広域地域連合的な発想で取り組むべきではないかなと思ったりする。いわゆる通常の「復興」ということばが、今、被災している人から発せられているのだとすれば、それはきっと、まだ今回の被災の全貌を誰も捉えきれていないからでもあるし、希望を失ってはいけないという必死の気持ちでもあるだろう。グラウンド・ビジョンがまだ建てられない段階での、急ごしらえの「復興」「復旧」は危険だ。それに今回の災害からの「復興」や「復旧」は、元の状態にプラスアルファといった内容では、足りないのである。本当は、今、まだボランティアが現地に存分に入っていけない時点で、こういった議題をどこかで話し始めていたほうがいいんじゃないかとも思う。少し落ち着いてきた段階で、復興計画の大筋を政府や地方行政に伝えて検討を始めて、まだ決まっていなくても、その議論の進捗状況は、逐次、被災社会に伝えていく。そうすれば、少しは被災地の人びとの気持ちも、落ち着くのではないだろうか。。こういう話をすれば、本当に一時的に避難すべき人も、現在の「避難場所」を後にしやすくなるかもしれないし、「避難場所」を運営管理している災害時リーダーの人たちも、すこしだけテンションを緩めることができるんじゃないかなと思った。
家をなくす、生業の基盤をなくす、人間関係の基盤をなくす、というのは、ほんとうにたまらないものだ。わたしは、程度の差こそあれ、このすべてを全部経験したから、今、被災地にいる人びとが直面している苦しみを、少しだけわかってあげることができる(んじゃないかなと思う)。しばらくは、なくしてしまったもののことばかり考えて、空っぽになってしまうからだ。現実的に考えて、わたしが今までの自分のアカデミックな経験を、今回の災害に際して社会的に貢献というのか還元する機会はないと思う。そういう場を、今のわたしはもたないからだ。でも、一個人としては、できることはあると思う。そう思いたい。北国の春は遅くやってきて、夏も短いのだろう。でも、その短い春と夏の間に合わせて咲くような花を、被災地に送ってあげたい。種を播いてもよい。木を植えてもよい。毛布とかミネラルウォーターばかりでなく、いい匂いの石鹸や保湿クリーム、きれいな刺繍をした巾着や爪切りや綿棒。そういうのを欲しいなと思っている人がいるんじゃないかなと思って、後方支援活動をするしか、わたしにはできないなあと思っている。なにしろ、自分の生活が崖っぷちなのだから。東北の人と一緒にがんばっていくしかない。
_ 行政もいっぱいいっぱいで、なかなか手が回らないのだろうし、被災者へのボランティアだけでなく、本当は行政を助けるボランティアも必要なのだけど、まだその段階まで到達していないのだと思う。だから、疎開する人と避難所に残る人の間の心の調整ができなくなってしまっている。本来、今すぐにでも「疎開」すべき状況にある人(高齢者、妊婦、乳幼児がいる人、その他どんな事情であれ、その被災者自身が別の場所に行く必要があると感じている場合)は、なんの後ろ髪も引かれずに、直ちに心と体を休めることのできる場所へ「避難」すべきなのだけれど。これを書いているのは、今朝の朝日新聞のウェブ版の記事を読んでのこと。一旦、避難所を出たら、もうここへ戻ってくるなと言われることもあって、厳しい状況だけど、なかなか「避難」できない人もいるという内容だった。こういう社会的二次災害が発生する可能性があることは、神戸での震災の時もあったはずで、少しは経験の蓄積はあったのではないかと思う。でも、今度の場合は神戸の経験が生かせる部分とそうでない部分がかなりある。ひとつは、都会と地方というコミュニティの背景の違い。地方の農村や漁村の地縁社会にしっかりと根ざした社会関係のあり方が、よく機能する場合もあれば、そうでない場合もある。そういう背景を熟知したような、たとえば社会学者だとか文化人類学者とかが、過度に同情しすぎない距離をしっかりと保ったところから、コミュニティの社会的復興に向けて助言できるような環境にあればよいのだろうけれどと思う。ああ、ほんとうにどうしたらよいんだろうか。。
まだ確かな被災状況がはっきりしない中、救援・支援ボランティアでさえスポット的にしか現地で活動ができない状況下では、もうそろそろ考えていかなければならない部分が、いっぱいいっぱいになって、疲弊してきていると思う。避難している人の精神的ケアはもちろん必要なのだが、行政や心理ケアとは別の視点からかれらにコミットする人が必要になってきている。そして、日本人であろうがなかろうが、地方行政をサポートする人員。公務員の被災者の人たちも、もう限界をとうに越えてしまっているのではないかと思う。
この苦境を一緒に乗り越えようというのが、巨大エネルギーになってうまく行く場合もあれば、一旦、メンバーそれぞれが落ち着いてから再結集してがんばろうという方向がよい場合もある。むずかしいなあ。
わたしがこの問題を調整するコミッティのメンバーだったとしたら、まず考えるのは、有無を言わさず、もっと安全で快適な場所に移住すべき人を、ひとまず避難させることだと思う。それから、災害時一心同体に強く執着してしまうような状況下にある人たちと話をして、誰一人欠けるなというしんどい気持ちをうまくほぐすことだろうなと思う。誰一人、後ろめたく思う必要はないのだから。ほんとうは。
こういうニュースが一番、突き刺さる。
_ 現実的な視点に立てば、短期的なスパンでこれだけの人数を収容できる規模の仮設住宅を建設することはほぼ不可能だろう。原発のこともあるからなおのことである。物資を陸送するライフラインの確保すら難しい状況では、絶対に必要な、ある程度長期的に入院治療する必要がある人を収容するための病院すらバラックでしか準備できないのではないかと思う。
学校統廃合で使われなくなった建物を最大限利用するのも有効。こんなとき諸外国でよく取られるのがリロケーション政策だ。コミュニティを丸ごと、別の場所に再定住させることで、もちろん問題もある。複数のコミュニティが共存することで統率が取れなくなったり、過剰に帰属意識を持ちすぎたり、あるいはどうしてもなじめなかったり。でもこの問題は、それこそ様々な形での外部支援者からのコミットメント次第で、専門家による助言が足りなくても、ある程度は回避できる。内田先生もすでにお書きのように、文科省ベースで、学校単位で一定の仮コミュニティを学校施設に受け入れるということも現実的な方法かなと思う。
「不謹慎」ということばもあちらこちらでみるのだけど、わたしの考えは、過度に今回の巨大災害で、被災地の外にいる人がショックを受けすぎるのはどうかということ。前回の日記にも書いたけれど、あくまでも自分の日常生活の延長線上で、今回の被災を考える「余力」を持っていないと、結局、なにもしてあげられなくなるからだ。現実的に、必要な支援を考えることができなくなってしまうから。なにが不謹慎でなにがそうでないかということは、明らかに明白な意図を持った悪意をのぞけば、ほぼすべて主観の問題である。それとどう折り合うかは個人の考え方の範囲で決めることだし、外部者同士でやれそれは不謹慎や否やとやりとりするのはナンセンス。。
なんてことを今、わたしが書けるのも、上に書いた「してはいけない」をすべて自分が経験したからである。「東北」地域で、被災に遭わなかった場所はまだまだたくさんある。直接の被災地とはならなかった場所であっても、きっと今後しばらくは、観光旅行者の数値も右肩下がりを続けるだろう。でもだからこそ、なにも起きなかった「東北」の観光地を旅行するのだ。災害ツーリズムは、実は現実的に、東南アジアなどの被災地を経済的にも救済している側面がある。災害まんじゅうみたいなものやTシャツ、被災時の様子をDVDにまとめたものを売る被災者もいたりするくらいだ。なにも今、避難所になっている体育館や公民館を見物に行こうというのではない。非被災地が、経済被災地になることを未然に防ぐこともまた、ボランティア活動とおなじくらいに有効であるということだ。といったことを考えていくうちに、被災地の外にいる人間は過度にショックを受けているわけにはいかないということになってくる。被災地を後方支援するという目立たない活動は、これから大体10年くらいの時間枠で重要な意味を持ち続けるのではないかと思っている。
→いや、10年どころではないだろうなあ。復興以前の状況に戻すことを考えるのではなく、文字通り、一人一人の被災者がポスト震災の生活を立て直せるように、復興とか再生といった既存の枠組みに収まらないパラダイム転換が必要かも知れない。だけど人的支援は、できるだけマニュアルでこつこつと。「災害ユートピア」に書かれていることでもあるが、トラウマ・ヒーリングとかカウンセリングは、今はそれほど必要ではない人のほうが多いと思う。なんといっても、まだ一週間過ぎていないのだから。すぐに癒せる悲しみではないのだから。