_ 某日。夕方、子どもを迎えに行ったら、先生が、モウシワケアリマセン、、と謝ってくる。子どもの姿は見えない。へ?と、呆けたような感じで反応すれば、園庭の滑り台で遊んでいる時に、はいはいの姿勢で、両手を着きながら段を上った子どもが、てっぺんで立ち止まらず、そのまま両手バンザイの姿勢で、頭を下に向けたままでスロープを滑り下りたのだとか。それでちょっとけがをしたんですという。うじゃうじゃと集まっていた子どもの塊に目をやれば、わが子が眉間に真っ赤なケガをした状態で、ニカニカと笑っていた。用意していた着替えを全部使ってしまったので、園の服を着せてもらっていたから、よその子に見えたのだろうか。それとも眉間の真っ赤な傷のせいだったのか。先生は、電話しようかと思ったのだが、子どもがすぐに泣きやんだこと、出血もすぐ止まったことから、様子をみることにしたのだという。いわゆる鼻の骨、あと数センチ上だったら(あるいは下だったら)死んでいたなどと語られることの多い場所の話である。「モンペ」じゃなくても、我を忘れる人もいるかもしれないなと、なぜか冷静に考えながら、でもとにかく頭を打った場合は、悪い症状はすぐにはでない場合もあることをおさらいし、「では、明日の朝までこちらも自宅で様子を見ます。その時点で何か異常があれば、すぐに病院に行きます。それから園に連絡するということでお願いします」と、なんだかちょっとビジネスライクに話をまとめて、すぐに帰路についた。靴も履かせずに、正門を出てぐんぐん歩いて、大きな桜の木の下に着いてから、ようやく深呼吸して、子どもに顔を近づけた。眉間より少し下に、見事な擦傷だ。子どもは、地面に下ろしてもよろめくことはないし、裸足でアスファルトに立っているのが愉快らしい。靴下すら履かせなかったのかと気がついた。自分が実は動揺していることを確認してちょっと苦笑いして、ベンチに腰掛けて靴下と靴を履かせて、手を引いて帰った。長い影と、うんと短い句読点みたいな影を道連れに、少し遠回りして子どもの歩く様子を確認しながら帰宅。びっくりしたなあもう。でも翌日、子どもはごくごく元気に朝、起きてきた。元気があってよろしい。後で、本当はもっと先生に抗議すべきだったのになどと言われたのだけど、週一回という肩身の狭さとか、自分の社会的立場の脆さとかで気後れしてしまったという側面は否めない。社会的に、どこにどう位置すればよいのかわからない不安定さを親が持つようではだめだと、次の日になってから気づく。子どものためにも、しっかりせねば。
_ 朝、子どもを保育園に送っていく。お天気もよいので、帽子を被り、靴を履いて、自分で歩いてみるように促す。手の届く範囲にわたしがいると、すぐに足にしがみついて抱っこをせがむ。なので、わざと少し先を早足で歩くと、道端の花や生け垣を目指してとととっと、突進。こっちこっち、と呼んでみても、子どもは笑顔で90度、明後日の方向に突進していく。少し抱っこして、また歩いて、保育園に近づくと、途端に顔を歪めて危険を察知したように、体を硬直させた。玄関で靴を脱がせる間に、もう大泣き準備完了で、教室に入ると、お友達諸君が、いったいぜんたいこのこはなんでないてんるんだ〜、と大勢寄ってくる始末。1歳児と2歳児が蠢くカオス教室に子どもを置いて、センセイヨロシクオネガイシマスと、足早に保育園を後にして、郵便局、薬局、パン屋に行ってさっさと仕事を済ませて家に帰った。三枚千円の子どもの夏服に、小花模様の端布を切ったり、ヨーヨーにしてみたりしたものを縫い付けて、三枚二千円くらいに見えるように工作した。ベトナム雑貨の百円ショップ屋で買ったレースは、なんと細いゴム入りで、ヨーヨーの円周にくるっと縫い付けたところ、嘘みたいにかわいくなった。子どもに早く着せてみたい。
_ 政権が頼りないからなのかもしれないけれど、ばらばらに住宅再建やら仮設住宅建設を進めるのはどうなんだろう。防災計画というか減災計画と連動した都市復興計画の中に位置づけて進めないと、いわゆる心のケアが等閑になってしまう可能性が高い。ハコモノは、できてしまうと、それだけですべてが解決したような気持ちに、当事者も政府も思ってしまうことがあるから。心のケアというのは、ちょっとオブラートに包んでいる。個人としての生活の再建、共同体メンバーとしての連帯意識とか責任感とか。どちらにも絡め取られて身動きできなくなる場合があることを、行政は多分、もうわかっているのだろうけれど、どうやってケアすればよいのか、わからないのだと思う。わたしにもわからない。それと、被災地に残って復興を遂げたい人と、一旦健康と心を落ち着かせてから生活再建に取り組みたいと思ったり、新しい場所で思い切って新しい生活を立て直したいと考えている人を二極分化してしまい、残る○去る×的な、安易な価値を与えてしまう可能性がある。今、一番考えなければならないのは、たぶん、阪神・淡路の復興住宅・仮設住宅で起きたような、孤独死(高齢者に限らない)をどうやって減らすかということだと思う。プライバシーの問題はもちろん大事なのだけど、お風呂や食堂台所は共用スペースで、あとは個室が確保できるようなタイプの集合住宅型仮設住居もあったほうがいい。そういうところの管理は、もちろん積極的に第三者がかかわることで、妙なコミュニティができてしまわないように配慮するようにすればよい。今、内閣で、こういった議論がどの程度おこなわれているのか、知りたい。内閣が何を考えているのかイマイチわからないというところが、日本全体を不安にさせているような気がする。
_ ちっちゃな同窓会だったけれど、参加者それぞれに印象的なひと時だったという記憶を残したようで、思いがけず、感想やお礼を交換するような状態が続いている。十人十色とはいうけれど、誰一人として、似たような人生を歩んでいる人がいないということもまた特筆されるかも。既婚者は全員国際結婚経験者という共通項は、それ以外になんの意味を持たないということ、まだ結婚していない人たちも、別にコンカツに忙しいわけでもなく、それぞれの親世代も要介護であったり病気がちであったりということはあっても、みなほんとうにそれぞれの道を進んでいた。ゆったりとした時間を共有することで、ほんのひと時ではあったけれど、よい思い出になった。集まった人がみんな子どもをかわいがってくれて、好きになってくれたことが、わたしには一番うれしかった。耳が聞こえていても聞こえていなくても、発達障害があってもなくても、この人たちはたぶん、お母さんに何かあったときには、あんたのことを心配してくれる人たちだよ、と話した。子どもは昨日もまだご機嫌な様子で、いつも以上に明るい顔をして、足元にまとわりついて離れなかった。また、お外に行こう。
_ わたしの頭にも胸のあたりにも、どんよりとしたもわっとしたものがいつも厚く垂れ込めているから、藤沢周平のまだ読んでいない小説を選ぶ時には、慎重でありたいと思っていた。しかし書架の前で選ぶのも、頭の芯が鈍く重たくまぶたを圧迫するから、ふらふらと伸ばした手は「海鳴り」の上下巻を選んでいた。耳鳴りと韻を踏む響きに誘われたのだろうか。文庫本を買うなんて、一体どれくらいぶりだろう。早速、帰りの車中で読み始めた。
一代で築いた紙問屋の新兵衛と、老舗問屋の女房のおこうの物語であった。今風に、下世話な表現を使えば、それはそれぞれ配偶者がいる者同士の不倫としかいえない。それがありきたりな偽純愛小説にならず、美しい人間同士の信頼感の物語に昇華されたのは、藤沢周平だからこそなのであろう。この小説を読んで、頭がすっきりとしたとか、霧が晴れたようだなどということは決してなく、今もまだぼんやりとした暗い気持ちでいっぱいだけど、藤沢小説にしては珍しく澄み渡った明るさに溢れた小説の終わり方が、とてもよかった。もちろん不安がいっぱいの主人公二人の道行きである。読者だって、そのことはようようわかっているのだが、なぜかそれほど悲観的にならなくて済むのは、やはり「純愛」ものだからなのだろうか。
_ 直前まで同窓会+花見に出席しようかしよまいかと(自分が事実上の幹事であるにもかかわらず;呼びかけ人は別の人なのだけど)悩みに悩み、夜遅くまで眠れず、明け方、起きだして、少しだけ書き物をして、結局、子連れで出席。子どもは会場となった古い民家を改装した和食店に一歩入った瞬間、なぜかはとんとわからないのだが、声をあげて泣き出した。それが結局、その日一日を象徴するような感じとなって、わたしはずっと子どもの面倒をみてばかりで、誰ともほとんど話せずにいた。でも、友人の子どもが我が子の背中をとんとんと叩きに来てくれたり、ミニカーを持ってきてくれたり、子どもは子ども同士、いつの間にか仲良く遊ぶようになっていた。デザートを注文するとき、「オレンジの人、手を挙げて〜」「こしあんがいい人、誰〜」などと呼びかけ人が声をかけてくれたのだが、我が子は、きなこがいい人〜、という声を聞いて、「はいッ!」と手を挙げていた。。耳は聞こえているんだろうか。そんなわけで、最初はおお泣きに泣いて、どうしようかという状態だったのだが、だんだんと場の雰囲気にも慣れてきて、運ばれてきた料理を手づかみで食べたり、テーブルに這いあがったりと、調子全開になっていたのだった。霧雨が一日中降っていたし、風邪を引いてしまうと、お正月に罹って以来、3月末にやっとこさ完治した中耳炎が再発してしまうのが怖かったので、お店を出て、わたしたちは帰ることにした。久しぶりだったので、足を延ばして寺町を下って下御霊神社、二条で曲がって木屋町を高瀬川沿いに下りながら、桜を見る。子どもとふたりでゆっくりゆっくりと歩いた。それだけでも今日は出かけてよかったなあと思った。子どもは終始ご機嫌で、ずっとなにかを話し続けていた。
_ そもそもの発端は、欧州某国在住の友人親子が御母堂の介護帰国をしていたところに、国内某所の某先輩が悲願の学位論文を提出、頃合は花見時ということで、全国から同期とその周辺の人々が集まることとなった。久しぶりに、わたしにとっては本当に久しぶりに、役場の人とかハローワークの担当の人とかではない知り合いと会って話をする機会となる。昨年秋に帰国して以来、ほんとうに、ほんとうに、久しぶりで友人たちと会う。渦中にあるときは、引きこもっていたなんてまったく思っていなかったのだが、ほんとにずっと一人だった。役場の人とかハローワークの人と話をしていると、なんて親切なんだろう、と泣きそうになることもあれば、なんでこんなことくらいわかってくれないんだと、ツーカーでは決して通じないもどかしい思いや悔しい思いでいっぱいになることもあった。
自分がどんなふうに思われているかについては、わかっているつもりである。だから、明日みんなで集まっても、もしかすると辛い思いをすることもあるかもしれない。でももう少し人とかかわるようにしなくては。ずっとずっと、スーパーのレジの人、宅配の人、子どもの病院の人たちだけが、わたしの仲良しだった。長い間、冬眠していたなあ。これからもまだ長く冬眠生活は続くのだろうけど、明日だけは子どもと一緒に、春の空気を吸ってこようと思う。