_ ぎりぎりまでアブストラクトを書いていたりするもんだから、荷造りが一切できていないし、おみやげなんかに手が回らなかったりします。いったい何していたんだなんていわないでね。わたしにもわからんのだから。プルーフが返ってきたらすぐ提出する準備だけはしておこう。で並行してスライド作り。いざとなったら、パスポートとクレジットカードだけでも出国できるんだからだいじょーぶ、と自分に言い聞かせる。がんばろう!
_ 一ヶ月ほど前のことだっただろうか。新聞で読んだ小さな記事をときどき思い出している。確か九州、福岡あたりで起きた事故だったと思う。40代前半の女性が、1歳だったか11ヶ月だったかの男の子と一緒にお風呂に入っていて、うたた寝をしてしまい、目が覚めたときには子どもは溺れていてぐったりとしていた、病院に運ばれたが助からなかったという事故だった。お母さんはきっと、どんなに疲れていても子どもと一緒にお風呂に入りたかったのだろうな、いやいつもは誰かがお風呂に入れてくれるのがその日だけは都合がつかなかったのかもしれないなどと、ついつい頭を巡らせてしまった。自分もお風呂で寝込んでしまい、母に起こされることがよくあったから、他人事ではなかった。そして、そのお母さんは今、どうしているだろうかとも気になってしかたがない。日にち薬を飲んで、少しずつ、元気を出しているのであればよいのだけれど。
こういう小さな記事のその後について、新聞は報道する必要がないと思っているのかもしれない。わたしは学生の頃、A新聞をかY新聞とかM新聞とかK新聞の入社試験を受験した。結論からいうと、どれも最終面接で落ちてしまったという恐るべき不運、人望とか将来性に一抹の曇りのある若者であったわけである。大体、どの面接でも、ある記事をキャッチ―に取り上げて書くのはよいが、「後日談」を書かないところが新聞の悪いところだ、なんてことを言ったりしたからだろう(いやそれだけが原因じゃなかったんだろうなあきっと:はは)なんて思っている。中長期的な視点からの観察の記録は、すでに「ニュース」ではないから、新聞には載らないのかもしれない。載せないのかもしれない。すぐに結果を出そう、結果が出せる研究をしようという流れとおなじく、とても刹那的。そういう流れがあちらこちらから集まってきて、そういう本流ができているような気もする。というのは、わたしの僻みだとして。
_ いろいろ作業。いよいよ収集がつかないよー。
_ 昨日の午後になって外にお昼を食べに出たとき、わが国の首相が辞職したというニュースを知った。そういうムードは最前から漂っていたとはいえ、本当に辞めてしまうとは。。いろいろ失策があったり不幸なところもあった人かもしれないけれど、辞めることが何かを解決するわけでもなんでもないということは、わかっていたのではないかと思っていたんだけどなあ。別に、前の選挙のときに、彼の党を応援したわけでもなかったけど、もう少し、長期的な視点からどうするのかみてみたいとは思っていた。みな不完全燃焼という感じではないか。
_ 友達にお願いして、某作業を手伝ってもらう。
_ 全然、世の中の動きから外れたところで一人でごにょごにょとしています。思えばこの数年のわたしは、ずっとそのような感じで過ごしてきた。徒党を組もうにも、群れようにも、今、身の回りにとくに親しい人はいない。みな、いなくなってしまった。だからというわけでもないけれど、新しいことはそれなりに努力して知っているつもりだったのだけど、本来、自分以外のアンテナから取り込むべきような情報からすっかり疎くなっている。そのことに、長らく気がつかなかった。そしてまずいことになっているなあ、と思ったわけである。ひとりガラパゴス化していることに気がついたのだ。わが国の首相をみていて、思わずわが振りを直さなあかんと思ったりしてしまうほど、自分以外の他人とのコミュニケーションが断絶している。毎日学校に来ていても、そんなふうになることがあるわけです。別に意識して閉ざしているわけではないのだけど、そうなってしまっている。誰かに/誰かと何かについてじっくり話す、という行為から遠ざかって久しい。夫や家族を別にすると、今のわたしには誰もいない。誰もいないということは、ある意味、すぅっと消えてしまいやすい状況でもある。さびしいことだと考えるとどうしようもないけれど、自由ではある。ただし、挫けない強さが必要、あるいは感情を押し殺すような鈍感さが必要といおうか。十分に強いし、十分に鈍感やなあと思う。思うので・・・さて。
_ 昨日はひとりで大学へ。早朝に行って、脇目もふらずに原稿を書いて、気がつけば午後3時を回っている。飲まず食わず。慌てて帰る。すがすがしい気温の一日だったから、河川敷にはピクニックシートを広げた家族連れや、輪になってギターを弾いている若人の人などがいた。緑は濃く、花の香りがする。カルガモさんを連れてきてあげればよかった。足早に通り過ぎて帰宅。カルガモさんは先々週から鼻水を垂らしたままで、保育園に行った木曜日は、一層、ひどい状況になって帰って来た。保育園に行くようになったらいろいろな病気をもらってくるようになるとは聞いていたけれど。本人はいたって元気で、絵本の中のおつきさんを掴もうとするのに躍起になり、なんでかな?と不思議そうにしている。合間を縫って、保育園に持って行くよだれかけ(今の世の中、スタイとかビブというそうですね。よだれかけ、と検索しても、出てくる結果はスタイとビブであります。なんで日本語とちゃいますねん?)に名前を刺繍。ついでにおむつカバーにも小花刺繍を入れた。わたしは相変わらず、小さなことでくよくよとしまくっていて、勝手に疲れ果てています。
_ わりと疲れ果てています。来週までに原稿ができるんかなあ。無事に出国できるんかなあ−。報告してまたぐさぐさにショックを受けたら、もう立ち直れないよなあ。。発表で転けたことのない人がうらやましい。でももちょっと、がんばってみます。
_ 朝ご飯を食べて身支度を調えてから、カルガモさんがまた寝てしまうのに付き合って、わたしも二度寝。正午前に起きて、のんびり昼食を取る。
久方ぶりに沢木耕太郎を読んだ。この人の映画エッセーは、まるで一編の短編小説を読むような味わいがある。紹介されている映画をみたくなることはもちろんのこと、その沢木耕太郎のフィルターをとおしてまだ観ぬ映画の主人公たちが勝手に自分の頭の中で動き出して映画を作り上げてしまうような、視覚的な刺激を得るのである。子どもの頃は、新しい本を読む度に、頭の中に主人公の部屋、住む街、食べるものが映像となって、浮かび上がってきたものだった。わたしだけの映画を撮影するような感じとでもいおうか。沢木耕太郎の映画エッセーは、そのような忘れていた読書の刺激を思い出させてくれる筆致が素晴らしい。他の映画と比べることもあるのだけど、悪くいうための比較ではない。どんな映画も素晴らしいんだ、というような深い愛情が感じられるエッセーである。だから実際にその映画を観て、正直なところ映画としてはいまいちだなと思ったとしても、美しい掌編を読んだなあという感想は残る。そういうレビューを書きたいものだ>かれこれ三年越しの書評を抱えていて、わ〜、しまったなあ〜、と今さらながらに思っているわけであります。。もう創作するしかありません。
_ 高齢出産仲間の高校の同級生からのメールを読んで、をを!と思うことがあった。友だちの娘さんも小さい頃、外出や遠出の後、興奮がなかなか冷めなくて、熱を出したり寝付けなかったりということがあったとのこと。あるときは、小児科で鎮静剤を打ちましょうかとまで言われたという。カルガモさんもそういうことなのかも。なるたけストレスがないように、人の少ない時間帯に電車に乗ることを心がけてはいるのだけど、長い距離を移動して、大学に行っても慣れない急ごしらえのベッドに寝かされたりするから、きっと疲れているのだろうな。同級生の娘さんも、保育園が始まり、やはり家に帰ったらほっとしてなのか、熱を出してしまったのだという。ゆうべは、夜中も何度も目を覚まし、うなされているような声を出していた。そのたびにこちらは飛び起きて、様子をうかがい、場合によっては名前を呼びかけるのだけど、本人は目を閉じたままで、半覚醒状態のようだ。今度の某国行きは、だいじょうぶだろうか。飛行機の中で寝ないだろうことは予想されるので、おもちゃなど気晴らしをしっかり準備してあげないといかんかな。