_ 賢い電話を持っていないので、変人だと思われている(笑)。まあ、実際そうなので、別になんとも思わないのだが、最近不便なのは、もはや今どきの人々はショートメッセージなんか使ったりしないということだ。みな、ラインというのを使っている。お金もかからないらしいので、ふつうの会話やら連絡は、それですませるとのこと。わたしのように、毎月の電話代に実費をたくさんかけている人は、もはやなんとか原人と呼ばれても仕方がないらしい。そういうわけで、学生に連絡を取る時、わたしはまったく問題ないのだが、学生は困るようだ。つまり、センセイと連絡を取り合うとお金がかかって仕方がない・・・からである。日本だけでなく、今どきの大学生から賢い電話をなくしたら、途端にえらいことになる国は多いのだろうか。
『遠野物語』、再読。何度読んでも、おもしろい。
_ 昨日は聖金曜日で休日だったため、三連休である。そういうこともあって、昨日は終日自宅で過ごした。本を三冊、続けて読む。最初に読んだのは東野圭吾。おもしろいから貸してあげるわ~と言われて読んだのだが、おもしろいとはおもわなかった。なぜだろう。二冊目は『九月が永遠に続けば』(沼田まほかる)。アマゾンの評価では賛否両論だけど、わたしはとてもおもしろいと思った。主人公に共感できないとか描写が気持ち悪くて好きになれなかったという意見がとても多いのに、驚く。主人公に共感して読みたいというのは、「泣ける小説」みたいなものを読み過ぎると、そう思ってしまうのではなかろうかと。凄惨な描写という点については、もっとすごい小説だってあるわけである。わたしは本書の描写については、そんなに凄惨とか凄絶とか思わなかった。そして三冊目は『母の遺産』。期待しすぎないように、先に2冊読んでから読書に臨んだわけだが、やっぱり読み応えがあるのである。一気に読んだ。物語の設定とか、ひとつひとつの挿話については、既読の『日本語が亡びるとき』や母堂の著書である『高台にある家』などにも書かれていることだったりするのだが、とにかく壮大な物語の一部を、別の角度から読み直しているという気持ちになるくらいで、別に差し障りはない。ただ、ひとつ気になったのは、主人公美津紀の夫、大学教員哲夫の専攻。サバティカルで、UCバークレー、沖縄、ホーチミンに行くという設定。テレビにも出演する「文化人シャツ」を着こなす人物として描かれている。しかし、詳細な専攻が説明されていなくて少し残念。いつも、ひじょうに詳しく人物の背景が描写されるのに。細かいことだけど、サバティカルの行き先と、フランスへ国費留学したというところがうまく結びつかなくて、ちょっともやもや。
途中で、凄まじい雷鳴と驟雨で、家の中にいるのに雨音で話もできないくらいとなる。小一時間ほどだったが、まるで異空間にいるような不思議な気分になる。雨と雷がやんでから、『母の遺産』の後半、大雨の場面がすぐに出てきた。もう少しでシンクロニシティだったのに、などと思いながら読了。さらに読み終わってからもう一度、後半部分をすぐに読み返した。面白い小説は、なんでおもしろいとかどこがおもしろいとか、もうなにもいわなくてもよい気持ちになるくらい満足する。感想は、これだけです(笑)。
_ ここへ来て、毎日、仕事が多すぎてあたふたしている。訳がわからなくなっている。そういう中で、恩師が日本史関連の本を一揃い、送ってくださった。25巻本で、一冊、旧友の著書も入れてくださっていた。旧友の著書は一気に読んだ。それでまたたくさん思うところがあって、いろいろ考えたりして、時間がどっとタイトになって、今、さてどうしたものかと一時的に逃避行をしている。書かなければいけない手紙、書類、文書、かけなければいけない電話、読まなければいけない手紙、文書、本、学生の原稿。どれから手を付けるべきか。
_ 子どもが近所の家によく遊びに行くようになった。といっても、そこに同年齢の子どもがいるわけではない。ようやく1歳になるかならないかという男の子がいる。で、その家には子守の女性もいる。この子守の女性と一緒に遊ぶのが目的で、食事の間も惜しんで、子どもは日参しているのである。このことは言い換えれば、わたしと遊ぶよりも楽しいからだというひがんだ見方もできるのであろうが、そうではなく、きっと今、自分の世界を広げているところなのだろうと思う。
子守というか乳母というのか、この女性が働いている家は少し訳ありの家で、まだ大学生のお母さんがひとりだけで住んでいる。このお母さんの両親(赤ん坊の祖父母)は、まだ一度もこの家へ来たことがないとのこと。孫の顔を見たことがないという。しかし暮らしぶりは豪華だし、車も持っている。いろいろな事情があるのだろう。赤ん坊はアレルギーがあるとのことで、我々の家の裏にある中規模の病院ではなく、ずっと遠くにある国際標準病院に通院している。子守の女性は、お母さんからみれば、その母親世代、赤ん坊からみればおばあさんという年齢なので、わたしはずっと家族だとばかり思っていたのだった。それがふとしたことで、そうではないことがわかり、いろいろと話すようになった。いろいろな人生があるなあと改めて考える。
_ BBCでリー・クアンユー初代シンガポール首相の国葬中継を見る。シンガポールは大好きな場所だ。3日もいたら退屈してしまうとはいえ、アジアの混沌と西洋の洗練がほどよい塩梅で混在しているところは、人工的なところが鼻につくという人も多いけれど、わたしはとてもリラックスできる。今はICOCAみたいなカードで、MRTもバスも簡単に乗り降りできるようになったし、ほとんどの駅前には、簡単に安く食べられるフードコートが必ずある。上を見たらきりはないけれど、下の品揃えや充実具合は本当に素晴らしい。社会学系の先輩や同級生が、実際のところはどうなのかという、生活者の視点から調査をしていたりしたので、本当はシンガポールで生きるということがどんなものなのかは、少しだけ知っている。自分も、お金がある時から無くなってしまった今と、その時々の懐事情で、泊まるホテルのエリアもクラスダウンしてきた。だから、見えている部分以外のところの現実を多少、知っている。でも、こういう国が「建設」されたということの不思議さとか素晴らしさは、やはり驚嘆に値することではないかとも思う。またシンガポールへ行きたいなと思いつつ、うどんを打った朝だった。