_ 11月は全然日記を書かなかったんだなあ。。慌ただしく過ぎちゃったからか。
そんな間にも、人に貸してもらった本を一挙に読んだりしたりしていた。それができたのは、子どもがまた原因不明の病気にかかったため、一週間、仕事を休むことになったからだった。子どもの病気の原因は、まったくもってして不明。しかし同じ時期に同級生たちも似たような症状で学校を休んだりしていたらしいので、なにかの感染症だったのだと思う。血液検査をしてもなにもでなかったとか、毎日熱が40度近くになるのに、症状はそれ以外にまったくなくて、咳も消化器系の問題も何もなかったのだった。子どもの看病をしながら、怒涛の勢いで本を読んだ。『サラバ!』(西加奈子)と『鹿の王』(上橋菜穂子)が面白かった。『リバース』(湊かなえ)の読後感の悪さはなんとも言えないものがあったけれど、読んでいる間は他のことを考えるまもなくただひたすらページを繰った。本を読んでいるときだけが、自分が生きていると実感できる時間だったなどというのは大げさに過ぎるだろうか。『サラバ!』は、いつかまたゆっくりと読み返したいと思った。
_ 旧知の人と会うので、手土産を買いに街へ。2つある王宮のうちの小さいほうの前庭で、なにやらお祭りらしきものが開かれていた。こういう情報は、全然、普通には伝わってこないのである。うちは地方紙じゃなくて全国紙を読んでいるということもよくないのかと思うのだけど、とにかくこういう「何月何日に、どこそこでなにやらがあるでえー」という情報は、ピンからキリまでなにもかも口コミなのである。口コミネットワークに入っていないと、徹底的に情報は入ってこない。はい、端的に言って、寂しいことです。ちょっと気落ちしておみやげを買って、ああ、こんなお祭り、踊り好きの子どもはきっと見たかっただろうなあ、、、なんて思ったりしたのであった。
ちょっと訳ありの学生の、指導教官でもなんでもないのだが、心の指導教官になっている。学生は、本来の指導教官のところよりも足繁く、わたしのところに来る。で、一度来たら、2時間くらい話していく。それは全然、構わないのだが、本来の指導教官がどう思っているかを考えると、どうすべきかと考えないわけに行かなくなってくるほどによく来る。この学生は、とにかく並み居る教員よりも遥かに日本語がうまい。うまいとか下手とかそういうレベルを越えて、日本語を理解している。作文など、今時の日本人大学生などとは比べ物にならないほど、うまい。修辞の技術も、普通のレベルを越えている。こういう天才がまれにいるんだよなあと、時々、同僚の先生たちに、この学生のずば抜けた才能について語り合いたいと思って話を振るのだが、これがまた、みな徹底的に無視をするのである。その気持はわからないでもない。先生たちにすればさぞかし面白くないことだろう。でも、こういう人が将来的に学科に来てくれれば、それはそれは素晴らしいことになると思うのだけど、この国では突出した才能は、徹底的に妬まれるところなのである。だから、外交官にでもなればと、いつも話している。わざわざ虎穴に入って、潰される必要はないものなあ。なんとかしてあげたいけど、これだけできるから留学する必要もないなどと言われたりするのも、気の毒な限りである。うまくいかないものなのだなあ。。
_ たまたま入手した『図書館戦争』が面白くて、いつのまにかシリーズを全部手に入れて、折に触れて読むようになった。はじめのうちは、作者の独特の日本語遣いがどうしてもなじめず(今でもやっぱり、これはどうかな・・・という表現はいくつかある)、頭がいたくなったのだけど、これも一つの日本語表現と思って読むと、やっぱりこういう日本語は外国人の日本語学習者には絶対に書けないよな…などとあれこれ感じるのであった。そんなふうに思うこと自体もおもしろい。話自体、面白いと思うんだけど、どことなく、違和感は確かにある。メインの登場人物意外の登場人物がほとんどいない。それが違和感といえば違和感でもあるのだけど、もううるさいことを考えずに読むようにしている。なにしろ読むものがほとんどないから、もう仕方がないのである。なんだって読む。でも、やっぱりどうしても読めないものもあるんだけど。。日本から来る人に頼んで持ってきてもらった多和田葉子の日記が面白くて、早く終わらないように、ちびちび読んでいる。その中に、多和田葉子が宮部みゆきの小説を読んだという記述があった。なんと、多和田さんも宮部みゆきを読むのか!と驚いてしまったり。宮部みゆきは面白いと思う。でも、多和田さんが面白いと思う視点は、やはりなんというのか、いかにも多和田さんらしいポイントであって、なるほどなあと思った。それで、多和田さんの日記を読みながら、なんとなく水村美苗の『日本語が亡びる時』の第1章を思い出した。なんとなく、似ていると思ったのは、いかにも「作家」らしい視点とか文体の温度とか、だ。文体の温度ってなんだ?とも思うのだけど、葉っぱと苗って、やっぱり似ているから、なにか共有されるものがあるのかもしれない。なんて、こじつけて解釈している。
ああ、自由に次から次へと、本がよみたい。。
_ 先日、交換したばかりの4GLTEのWi-Fiモデムが早くも故障しましたので、交換に行ってきました(笑)。それにしても、壊れるのが早すぎるにゃあ。ガイコクジンなので、いつも番号札はくれないで、早く順番が回ってきた窓口に呼ばれる。ありがたいサービスだが、なんとなくおとなしく順番を待っている人に悪い気がして、早く終わってくれないかと思いつつも、結局、なんやかんやで小一時間ほどかかるのであった。
持参したiPodTouchで、Wi-Fiの通信状況を確認。OK。帰ってきてパソコンで確認。OK。できるだけ、長く壊れませんように。。。
今日は、午前中から大学もずっと停電だった。新しい学部棟を建築中なのだが、その際に、周囲の棟の電線を切ってしまったそう。もしかすると、今週いっぱい、学部内のすべての校舎が停電するんだとか。わたしは今日の午前中で、今週の授業がすべて終わったからいいんだけど、たいへんだなー。それにわたしだって、来週の講義の準備ができないわけで、えらいことになった。Wi-Fiも新しくなったから、ずっと家にいるという選択肢もあるから、それはそれでいいのかもしれないんだけど。
ところで、建築中と建設中とどう違うのだろうか。雰囲気的には、小さいものは建築で、大きいものは建設という気がする。そんなふうに理解してきた。
ところが、この国では、大きな建物であっても、小さな建物であっても、それが作っている最中なのか壊している最中なのか、よくわからないことが多い。そんなバカなと思われるかもしれないのだが、本当にそうなのだ。説明が難しいのだが、とにかくどっちなん!?という状況なのである。その理由は、足場が竹で組んであるからなのかもしれない。5階建てくらいまでだったら、竹をつなぎ合わせたような足場でなんとなくふわふわと建てている。そういう事情もあって、建築中という雰囲気が漂っているのかもしれない。決して、高度なテクノロジーを駆使して、建設しているという雰囲気ではないのだ。三匹の子ブタの三人目にように、コツコツとレンガを組み立てて作るわけだから、そう感じるのだろう。
先週から、『遠い太鼓』と『海辺のカフカ』再読。やっぱり前者のほうが好きだ。
_ 古いアパートなので、洗濯機を置くスペースがない代わり、お手伝いさんが洗濯物を洗うスペースというものがある。うちにはお手伝いさんはいないので、毎晩、そこで洗濯をしている。昨日、バケツでごしごしと押し洗いしていたら、子どもがいつの間にかやってきて、小さな自分用のバケツで自分の靴下を洗い始めた。そして、ママ、いつもママを怒らせるようなことばかりして、ごめんね、といった。
子どもが小学校準備学校に入学して以来、家を出る時間が小一時間早くなったため、子どもも睡眠不足になった。わたしもお弁当を作らないといけないので、毎朝4時起きをしている。ふたりともどことなくいつも疲れていて、それで小さなことでイライラするようになっていた。
子どもなりにこれではいけないと思ったのだろうか。なんていい子なんだろうと、洗濯の泡まみれの手で子どもをぎゅっと抱きしめた。こんなにいい子が自分の子どもだなんて、とても信じられない。神様、ありがとうございます。悪いのはわたしのほうなのに、子どもに謝らせるようなことをしてしまったのだ。これからは、悪いことは全部、わたしのほうに回してください。ずっとやさしい子どものままで大きくなりますように。いい子でなくていいから、ずっと元気でいてくれますように。神様、お願いします。