_ 七夕は雨というのがもう決まりなんだなあ。雨の朝、傘を差して雨の日割引のパン屋さんまで買い物に行き、薬局で虫除けなどを買う。先週は二回も部屋の中に大きなアシナガバチが入ってきた。蚊だけならまだしも、ハチはやっぱり怖い。かれこれ一ヶ月半ばかり前にわたしがカットした子どもの前髪がまったく伸びてこない。フランシスコ・ザビエルを筆頭とするイエズス会の方々の髪型にそっくりで、外出前はちょっと髪を濡らして、横分けにしたりするのだが、髪が細くて少ないからか、すぐに乾いてしまう。すると濡らす前よりもさらにサラサラになっていて、余計にザビエル度が上がるのだ。ピンクの服を着ていても、イチゴを模したチューリップハットを被っていても、「男の子ですか」と聞かれるばかりである。いっそう丸刈りにしてみたら、たんと髪が生えてくるだろうか。。
_ やっぱりまた修正できなくなっていた。。ま、あきらめて、これからは落ち着いて書くことにしよう。
_ 知人に手伝いを頼んで山の家の本とCDをブックオフの買取に出す。集荷に来てくれた運送屋さんが、こんなにたくさんの本を見たのは初めてですという。わたしもこんなにたくさん本があるとは思ってもみなかった。今回処分した本のほとんどは小説の類。後生大事にしていた村上春樹の単行本をほとんど手放した。文庫本も。残したのは「遠い太鼓」と「ねじまき鳥」だけ。絶対にもう手に入らないようなCDだけは手元に置いて、ほとんどのCDも手放した。ご縁があればまたお会い出来ることもあるでしょう。結構大きな段ボール箱が40箱。小さな本屋ができるくらいにあった。さようならと、一冊一冊に別れを告げた。
辞書類もほとんど処分した。手元に残したのは「岩波国語辞典」だけ。新明解国語辞典は、なぜか見あたらなかった。懐かしのあの辞書、どこにいっちゃったんだろう。高校時代の愛用の英和辞典は三省堂の新クラウンで、大学に入ってからはプログレッシブとなんとかっていうアメリカ語の辞書を使っていた。あれ、なんて名前だっただろう?なんとかアメリカンだったけ?それと最初の仏和辞典も。懐かしい。でも全部手放した。もうこれからさき、辞書を買うことなんてあるのだろうか。とてもとても懐かしかった。子ども時代、毎日毎日飽きもせずに読み耽った百科事典。わたしはこれで世界を見知ったような気がする。これももう処分した。さようなら。さようなら。
手にとってもう一回だけ眺めたいという衝動を必死で抑えて、すべての本にさようならを告げた。今までありがとう。ご縁があれば、いつかどこかでまた読ませてください。どこに行くことになっても、元気でいてください。
_ 「うたえほん」(つちだよしはる・え、グランまま社)というシリーズの絵本がある。誰もが知っている童謡やわらべ歌などの歌詞がすべてと、メロディーの音譜がセットになっている。柔らかい挿絵がついていて、とても感じがよい絵本。小さい本だけど、結構よいお値段がするので、図書館で借りてみて、子どもが好きそうだったら、マーケットプレイスで探してみようと思っていた。と、子どもはこの本に夢中になっている。おかげでこちらは、寝る前に、本に乗っているすべての曲を歌わされる始末で、子守歌を歌いながら自分が疲れて眠くなってしまったりしている。三巻まで出ているけれど、一巻の最初の曲は「ゆりかごのうた」。この歌は胎教としてもずっと聴いていたし、子どもが生まれてからも、一日に一回は歌ってきたものだ。今ではこの歌を歌うと自ら寝床に入ってくれるほどに調教されているといっても過言ではない。小さな卓上ピアノで弾きながら歌っている。
大人がいろいろな評判などを読んだり聞いたりして選ぶ本にはもちろんあたりはずれもあるけれど、図書館で適当に選んだ本で、大人がみるとなんとなくしょぼいような内容に思えたり、ほんとに単純で、落ちも何にもないなんどと思ってしまうような本でも、子どもが狂ったように夢中になることがある。犬のコロちゃんのシリーズはまさしくそれで、わたしはあんまり好きになれないのだけど、子どもはこのシンプルなシリーズがものすごく好きみたいだ。有名なノンタンのシリーズの対極にあるような本で、教訓もなにもない。多少擬人化されてはいるけれど、四つ足歩行している犬のコロちゃんの絵本は、しかけ絵本になっていることもあって、子どもは夢中になるようだ。この系譜に連なるような感じの絵本に、スモールさんのシリーズがある。その中に、農場で働くスモールさんが、ウシの世話をしたり、ブタやニワトリ、アヒルなどの家禽類に餌をやったり、トラクターに乗って畑を耕したりして、農場の仕事を紹介する本がある。この本は、日本での出版は1975年のことで、2005年には改訂版が発行されている。改訂版と初版の大きな違いは、フルカラー印刷かモノクロ基調に緑色だけが使われている印刷かの違い。図書館で借りてきたものは初版だったので、とてもシンプルな内容に単純な色彩がマッチしていて、とても味わい深い雰囲気を醸し出している。子どもはこの本が大好きのようだった。図書館に返却する日の朝まで、何度も何度も絵を眺めていた。今朝、図書館に行く準備をしていると、「うたえほん」をカバンにみつけた子どもが名残惜しげに取り出して、また読んでいた。そのことを目の端で確認していたはずなのに、いざ家を出るときにはすっかりと忘れてしまっていて、図書館のカウンターで、「まだ一冊お借りになっていますね」と言われたのだった。
図書館を出てから、電車に乗って児童館へ。小一時間遊んで、デパートで涼んでから、帰宅。一番日差しのきつい時間に駅からの道を歩いたから、わたしはもう完全に機能停止したのだけど、子どもはパワー全開で、ずっと走り回っていた。
_ あ!修正できるようになっている!よかった、よかった〜。「一線構える」って、いったいなんやねん〜と思ってそのまま足下の地中に沈んでしまいたい気持ちになっていたのを無事に修正できたので抑えることができました。めでたし。
片付けのときに、かつての愛読の書、アン・タイラーの[歳月のはしご」と再会した。その場で読み耽りたい衝動を抑えて、帰りのバスの中で熟読。おかげで下に着いたときは軽く車酔いをしていた。それから電車に乗り換えて、ずっとずっと読み続けた。高校を卒業して一ヶ月しないうちに将来の夫と出会って結婚して三人の子どもをもった40歳のディーリアが主人公。決定的な家族の問題というものはなかったのだけど、ある夏の休暇で訪れた浜辺で、突然、ずんずんと家族から離れて歩き始めた。知らない小さな町に住むことに決め、小さな下宿に部屋を借り、弁護士事務所の秘書の職を見つける。水着に夫のビーチローブをまとっただけの格好で、町に降りたって、雑貨やで肌着を買い、ワンピースを選び、試着室で着替えてしまうということが、アメリカではどれくらい普通のことなのかわからない。でもそのことに疑問を持ち始める前に、すべては自然な流れで片付いていて、もちろん数週間後には、実の姉が所在を確認にその小さな町にやってきたりもする。失踪したままで、まったく違う人生を歩むことになったという小説ではない。かつても、そして今回も、この小説の何にそんなに魅力を覚えたのかと考えると、ありきたりのことだけど、人生ってほんの小さな気の持ちようとかいつもと違う小さな思い切った行動とかで、なんとでもいとも簡単に変えることができるということ。でもその変えた人生が、百点満点ということはないし、正解ということでもない。ただなにかにこだわり過ぎず、すっと力を抜いて別の思い切ったことをしてみるのも悪くはないなあということを、考える。それが魅力なのかなあと思うのだ。この小説は大好きだ。
_ 山の家の片づけ。ちょっと一瞬雨が降ったりしたからなのか、狭いところでの作業だったけれど、さほどに暑さを感じずに済んだ。その作業中、懐かしい写真を数葉、発見する。22歳とか23歳の頃、当時のアルバイト先の先輩たちと一緒に宝塚の山の渓流でバーベキューをしたときのものだった。なんというのか、自分がとっても若くてびっくりしてしまった(当たり前なんだけど)。もともと日焼けしにくくてどちらかといえば白地ではあったけれど、写真のわたしは今のわたしが見たらほとんど北欧人かと思うくらいで、時代を反映して眉は若干太く濃く、口紅の色は当時、ものすごく愛用していたブルジョワの48番(だったかな)が、はっきりと見える。頬紅なんて塗ってなくても明るい色のほっぺたをしていて、なにも塗らなくても睫毛も濃い。三宮のセンター街に、今もおそらくあるであろう、輸入化粧品の安いお店があって(なんて名前だったけかな)、日曜日に大学の友だちとはるばる遠征して買ったものだった。そういう外見の様子は、もちろん経年変化による老化を経験した今からみれば、確かに眩しいような若さに溢れていて、恥ずかしいような気がするだけなのだけど、胸を打たれたような衝撃を覚えたのは、顔の表情だった。なんだかものすごく屈託がないのである。何も考えていないような、いや考えているのかもしれないけれど、いわゆる苦労とか辛酸とかそういうのとはまったく縁がないような平和で穏やかな顔をしているのである(とはいえ、この頃だって結構しんどい思いをしているはずなんだけど)。自分はこんな顔だったのか。。今は生活に追われて、いつも誰かと一戦交える覚悟を決めていることをできるだけ表に出さないよう、しかし絶対に負けるもんかと常に気を張っていて(というか、絶対に騙されるもんか!と思い込みすぎているところがある)、油断も隙もない顔つきをしている。もともとどちらかというと無表情なのではあるが、写真のわたしはとても親切で素直そうな顔をしているようだ。あの頃、わたしはどんな本を読んでどんな映画を見てどんな音楽を聴いていたのだろうか。さくさくと部屋に堆積している自分が通り過ぎた本やCDの山を整理していると、今の自分に一体全体、こういったものの影響がどれくらい反映されているのか、甚だ心もとなくなってきた。結局、なにも肥やしにせずにここまでやってきたのだろうか。脳内バックトゥーザフューチャーしながら、もっと頭をからっぽにしたほうがええなあと、何度も何度も思ったのだった。そういえば、20歳のとき、パスポートを申請したときの証明写真も出てきた。まるで文革時代に農村に下放された北京大学の大学院生が四川省の農村で出会った村娘みたいな三つ編みのおさげに、カーディガンの襟元からきちんと出した丸襟のブラウスを着ている。一体、いつの時代の写真なんだ。母や祖母の若いころの写真といってもいいような自分の顔を見ていると、何を失って何を得たのかと考えずにはいられなくなった。
_ 春先のある日、知り合いから翻訳を頼まれた。日本語から外国語への翻訳で、難しいのは歌詞だという点だけで、分量も多くはないし大丈夫だろうと思って引き受けた。翻訳料を払う、もらうというような話ではないので、翻訳ができた暁に、お昼ごはんでもごちそうしてもらえばOKですよ、というかんじで引き受けた。歌詞には曲がついている。その曲をきいたほうがイメージしやすいのではということだったので、CDを貸してもらえればよいと思ったのだが、新譜を含めて何枚かのCDをいただくこととなった。新しいのを買ってくださったのだと思う。それからも、下書きができるたび、完成版ができるたびに、いろいろなものをちょこちょことくださった。こちらは逆に申し訳ないなあと思うくらいだった。完成版を渡してからしばらくして、問い合わせがあった。実は翻訳した歌詞を公開するに当たり、自分で辞書を使って単語を引いてみたのだという。こちらの表現とわたしが選んだ表現は、どう違うのかという説明をして欲しいという。そのこと自体は簡単で、いくつかわたしの趣味というか好みが先行して、文語的あるいは詩的な語句を使っていたのが辞書(どんな辞書を使ったのかは最後まできかなかった)には載っていなかったり、辞書で引いたときに最初にあがっているのとはちがったりがあったのだと思う。また確かに誤解を招く語句を選んだものもあったと思ったので、その点については、無難な語句に替えたり、説明を付け加えたりもした。難しかったのはやはり最初に思ったとおり、歌詞であることに由来する解釈の問題であった。たとえば、前を向いているという表現があったとしよう。凝視しているのか、何かを考えながらじっとみているのか、あるいは何も考えていないのか。無表情なのか、歌詞の前後から判断してなんらかの喜怒哀楽の含まれる表情があると考えるべきなのかそうでないのか。とおり一変の解釈では間違いが生じたとしてもそれは当たり前のことだろうなと思っていたので、そういう点も含めて、できるだけこちらもいろいろな文献を当たり、人にも教えてもらって、完成稿を渡すことができた。翻訳はできるだけ中立的にと思っているけれど、詩の世界の解釈となると、ある程度、翻訳者の恣意的なことばの選び方が、詩の世界を再構築してしまうのかもしれない。そういうことを勉強できたという点では、よい経験だったと思う。ただちょっと困ったなと思ったのは、わたしの翻訳を、その言語についてはまったく知らない知人が、全部「確認」したということ。クロスチェックはどんな場合でも必要だとは思う。公開するならなおのことだとも思う。しかしなんだかちょっと「いやな感じ」とまではいわないのだが、ちょっと困ったなあという感じがしたのだった。そのことで別に気まずくもならないし、何事もおこらなかったわけなのだけど、人になにかをお願いするのは難しいことなんだなと、今さらなんだけど思ったものだった。