_ DVD「ヘアスプレー」と「ベティ・サイズモア」。前者、とにかく登場人物がみなキュート。主人公のニッキー・ブロンスキーの愛らしさとクイーンサイズなのに実に切れのよい踊りに魅了された。わたし、ま〜ったく踊れない人ですが、思わず、踊り出しそうになってしまうほどに素晴らしいリズム感に溢れた映画だった。なぜか母親役のジョン・トラボルタもかわいかった。後者、これまたブリジット・ジョーンズの表情が実に素晴らしい。BJのときが最高峰だと思っていたのだけど、こちらが彼女の真骨頂。そしてモーガン・フリーマン。かれはどの映画に出ていても、役名:モーガン・フリーマンなんだけど、この映画ではやはりかわいらしさが溢れ出ている。個人的には頭の皮を剥がされた上に殺されたベティの夫、「抱擁」のアーロンくんの髪型が素晴らしかった。コメンタリーによると、こういう性格の人物はこういう髪型なんだという強固な持論に従ったのだとか。とても元気が出る映画一本、ゴーイング・マイ・ウェイに夢見がちでもええやん?という映画一本観て、淡い高揚感に包まれた。
先週観たのは、「リトル・ミス・サンシャイン」「ライフ・イズ・ビューティフル」。コメント不要の素晴らしい映画。
_ 耳鼻科へ。なんとか両耳の炎症が引いた。あとはまだぐすぐすといわせている鼻水を止める薬をもう少し飲むだけ。一休さん、少々、不機嫌。病院のあと、氏子神社の周りの寺内町を歩き、池の畔で蓮の花を楽しんだ。シュークリームを買って帰宅。
_ 『ガラスのうさぎ』、『ふたりのイーダ』、『死んだ女の子』。みな女の子なんだなあ。
_ 早起きで勤行する一休さんに合わせて、4時には起床する。このところ、わたしがはまっている冬瓜となすびと甘長トウガラシの炊き合わせを作りつつ、お弁当を詰めた。出がけに一休さんが泣いたのでまた一緒に横になったりしているうちに、お弁当をかばんに入れるのを忘れてしまった。ショック。
_ 新しいカメラを買うのだが、大学生協や出入りの業者からの見積もりよりも、約1万3000円ほど、アマゾンで買うほうが安い。なので、迷っている。とりあえず自腹で買おうか。なんか不可思議。わたしはやはりフィルムで撮影するのが好きなので、デジタルの一眼レフには関心が薄く、今度買う予定のカメラは少々、マニアックなコンパクトデジタルカメラだ。ずっと京セラのCONTAX SL300RT*とCanonIXY800ISを使ってきた。が、(デジタル時代においては)もうかなり年代物で、それなりに不便もあるわけです(電池が消耗してきたとか、ほこりが取れないとかそういう類)。
_ 小さな子どもが亡くなった事件が喉のところに引っかかったままで、やりきれない。この暑い中をどんな思いで母を探して声の限りに叫んでいたかと思うと、たまらなくなる。
昨日の深夜、子どもが突然、狂ったように泣き叫びながら、目を覚ました。どうも中耳炎はわたしが思っていたよりももう少し以前から罹っていたようで、保育園でもらってきた風邪は、それを悪化させるきっかけであったようで、耳鼻科のお医者さんが予想していたように、すっきりとは治っていない。いつから罹かっていたのだろうか。毎日一緒に暮らしていて、こどもを身ぎれいにして健康管理をしっかりとしているつもりでもこういうことがある。新米の母親だからそういうこともあるよと言ってくれる人もあれば、注意が足りないと責める人もいる。もし子どもの聴力に異常が見つかったりすれば、なおのこと、わたしもやり切れなくなる。夜泣きなどめったにしなくなっていた一休さんが、こちらがびっくりしてしまうような泣き声をあげただけで、わたしはまだおろおろとしてしまう。某国で療養中の夫に代わって、父親も兼ねて一休さんを育てているという責任もある。子どもはしっかりと抱っこして、母乳を飲ませたら、すぐに泣きやんだ。クーラーのタイマーが切れたから泣いてしまったのだろうか。耳が気持ち悪かったのだろうか。亡くなった小さい子のことを考えながら、一休さんをしっかりと抱いた。
某国だとひとりで子育てするという状況は、まずあり得ない。厳密には一人親世帯はあるのだけど、近所の目というものが、とてもしっかりとある。十分に食べていないような子どもがいれば、正式ではないけれど、「養子」のようにその子を預かるようなことがある。もちろん人身売買やら児童労働などが普通に存在するようなところだから、不幸な境遇にある子どもがまったくいないわけではないのだ。しかし近所づきあいがまだ濃厚に存在し、機能しているようなところだから、そしてなにより、子どもを本当に大事にする社会だから、大人は大人としての役割を果たしながら、子どもをしっかりと育てている。日本よりもさらに多く、十代で結婚し親になる人がいる。苦労しながら一所懸命に生きている。
この頃は、動物園生まれの動物の中には、子どもを生んでも育てることを放棄する場合がある。そういうときは、飼育員が面倒をみている。一人で育てられないときは、だれかほかの人の手を借りるということが、もっと気楽にできるような、またそういうシステムがきちんとかつ弾力的に整備されているような社会であれば、こういう事件はおこらなかっただろうか。逆に制度に縛られるような考え方をする人は絶対にどんな環境においても一定の割合で存在するかもしれない。臨機応変に、柔軟に何事にも対応できるような余裕を持つ社会というのは、理想郷にすぎないのだろうか。もっと幅広く、世の中の出来事を見渡せるような人を見出して、やわらかい対応ができればいいんだけど。
_ この頃、小さい子が死んでしまうニュースをたくさん読む。今日、大阪であった事件の記事を読んで、むらむらと腹が立って仕方がない。理由がふたつある。ひとつは、盛んにその母親の職業を新聞が書き立て、テレビが読み上げていること。もうひとつは、府の役場がまったく役に立たない働きをしたということ。これだけ近所の人が何度も何度も通報しているのに、たまたま足を運んだときに中に人のいる気配がないという理由で、プロの職員があっさりと引き返しているのだ。もっと対応の取りようがあっただろうに。母親も疲れていたのだろうなどと、わかったようなことは言いたくない。不幸な事件がこれ以上起こらないよう、対策の可能性は無数にあるはずだ。少子化対策というのは、子どもをせっせと生ませることを目指すのではなく、生まれてきた子どもがみな健康に育つことを目標にしたほうがいいんじゃないかと思う。
_ チケット予約とか旅行伺いとか、頭が回らない。今回、どうしても河童国経由で行きたかったのだけど、どうにも飛行機の乗り継ぎが悪い。わたし一人だったらば、それはむしろありがたいことで、なんなりと時間を潰したりできるのだけど、子連れだとどうも難しい。なので、やむなく、直行便に乗る予定。
あと片付けてしまわなければならない諸々がいくつか。
『火星年代記』、読み終えた。SFは詩なのですね、というかブラッドベリが詩人なのか。わたし金星人だし、守護星も金星だけど、ちょっと火星に行ってみたくなった。イメージとしては、やはりアメリカなんだな。ちょっとさびれた中西部。というかもろにフロンティアを目指している幌馬車部隊だから、やはり開拓者というイメージなのか。人の気配がまったくしない都会の描写もあるけれど、それもやはり人気のない、真昼の決闘が終わったあとの盛り場のイメージ。そんなアメリカは映画の中にしかないよといわれるかもしれないそういうイメージ。
_ 今回、帰国して数日してからずっと今日まで、こどもが四つん這いの姿勢から、一所懸命、立ち上がろうとしている。毎日、飽きることなく、練習を試みている。どんな絵本を読んであげるよりも、どんなおもちゃで遊ぶよりも、それが一番楽しいといった顔つきをして、明るい声を上げている。より正確には二足歩行のために立ち上がるのではなく、両手両足歩行というのだろうか。生まれたばかりのほ乳類はウシ目やウマ目のこどもが立ち上がろうとしているのに似ている。某国で義理の父が育てている牝牛がこどもを生んだとき、まだひよわな四本の足でよろよろと立ち上がろうとしていたのを思い出した。わが子は思い通りに立ち上がれないとわかると、決まって疲れ果てて泣き出す。まだ後ろ向きにしか進むことができないはいはいで、器用に机の下や椅子の下に入り込んでしまった子どもを救い出し、明日は立てたらいいねえという。子どもはビー玉みたいな目をきらきらさせて、うん、と笑った。
_ 『火星年代記』(新刊)。電車の中でぼちぼちと読んでいる。頭の中でのBGMはやはり/なぜか、ジギースターダスト。
昔、ジェッターマルスという手塚アニメがあって、その始まりの歌の歌詞に、「♪…時は、2015年…♪」というのがあった。2015年といえば5年後。5年後に、少年型アンドロイドロボットがいるとはとても思えない。この歌の歌詞も、『火星年代記』とおなじく、プラス30年ないしは31年で修正すべきなのかもしれない。昔、「未来」だと思っていた「時」が、今、「現在」になっている。不思議といえば不思議。わが子は、もし日本人女性の平均寿命のままに生きるとすれば、22世紀初頭にもまだ生きている可能性がある。22世紀なんてドラえもんの時代ではないか。
いろいろな機械が開発されて、インターネットやiPhoneやら、なんだかすごいよなあと思う。だけど、真にSF的な科学技術の発達としてわたしが期待してしまうのは、やはりテレパシーとかテレポーテーションかもしれない。超自然科学ではなくて、物理学的科学としてこれが解明されて汎用化されたならば、やっぱりすごいと思うだろうなあ。なので、やっぱりどこでもドアとかほんやくこんにゃくの到来を待ちたいわけである。一休さんにはせいぜいドラえもんをたっぷりと読ませようか。