_ 台風が過ぎた今朝、やっと子どもを病院へ連れて行ったら、「立派な扁桃腺炎」とのこと。「立派な」という修飾語が一体どういう意味なのかは、これからわかっていくということなのだろうか。。中耳炎にかかりやすいことに加えて、扁桃腺も腫れやすいということがこれでわかったということか。今日になってようやく熱が下がってきて、子どもは午前中からずっと眠り込んでいる。雨上がりで涼しい空だから、昼寝はさぞかし気持ちよかろう。
_ 病院の帰りに図書館に寄る。のちに、これが悪い判断だったたということがわかるのだが。。「伝説の編集者ノードストロムの手紙−アメリカ児童書の舞台裏」(レナード・S・マーカス編、児島なおみ訳、偕成社、2010年)がとてもおもしろい。まだ最初の数十ページしか読んでいないけれど、名著だ。結局、子どもと社会の関係、あるいは社会における子どもの位置づけというのが確立したのは、ほんのこの1世紀のことなのかもしれない。アメリカでさえ、児童虐待が社会問題化したのは、確か20世紀も20年だか30年が過ぎてからのことで、動物愛護団体が最初に動いて、監禁状態で養父母から虐待を受けていた少女を救ったことが発端だったとwikiで読んだことがある。…と、そういったことは本書とはまったく関係ないことなのだが、小さい時から親しんできた、おさるのジョージ、大草原の小さな家シリーズ、ハロルドくんの絵本などなどなど、そういった児童書の著者を支えてきた名編集者がいてこそのことだったんだなあと、深く味わって読んでいる。大学を出たわけでもなく、司書の資格もないけれど(と、インテリ編集者からけんかを売られることも多かったらしい)、よいものを見抜く才能と人を育てる(おだてるも含めて)センスがあった人なのだ。
で、冒頭に書いたことだけど、悪い判断というのは、病院の次に行く先として、図書館とスーパーがあった。具合の悪い子どもを連れているのだから、普通の親ならば、スーパーで最小限の買い物をしてすぐに帰宅したことだろう。ところがわたしは、意外に元気そうなQPさんについつい安心してしまって、家とは正反対の方向に針路を取り、図書館へ向かったのだった。四半刻ほど本を吟味して家路につく頃には、QPさんのぜーぜーという呼吸が聞こえていた。慌てて電車に乗って買い物もせずに帰宅。体温を測ると39度を超えている。子どもはそれでも「元気」で、ごはんも食べるし、借りてきた絵本を読めと言って持ってくるし、ピアノを弾けば膝に乗って飛び跳ねる。それでも熱はじわじわと40度に向かっており、恐らく熱のために過剰に元気になっているのを宥めるべく、早々と消灯体制を取り、子守歌を歌って寝かしつけようとするのだが、こういうときに限ってまったく寝ない。熱があるからだろう。氷枕をセットして、こちらも布団の上に座って母乳をやったり、横になったり、起きたり、オムツを替えたり、解熱剤を半分だけ入れてみたり、そうこうしているうちにもう明け方4時になっていた。外は台風。
_ 今週、NHKのBSで午後の時間帯に放送されていた映画は、どれも秀作ぞろい。最初から最後まで観ることはできなかったのが残念。毎回、後半部分だけしか観られなかったけれど、もしレンタル屋にあるようだったら、いつか観てみたい。メモメモ:「父、帰る」「ある子供」「約束の旅路」。夜の映画もよさそうなものがたくさんあったが、もう夜更かしして映画を観ることができない。「サン・ジャックへの道」。これは、昨年、小さなマイブームが訪れていたフランス—スペインの巡礼街道が舞台の映画のようだ。いつか、好きなだけ映画を観たり、本を読んだり、できるようになればいいなあ。
オンライン・ラジオを聴くようになった。いろいろな意味で、なんの問題もないんだけど、今までずっと小さいけれど、わりとしっかりとしたオンキヨーのミニコンポで音楽を聞くのになれてきていたので、音が自分の正面から聞こえてくるというのに、まだ慣れない。部屋に音が溢れているという感じも薄いし(それはできない相談なのではあるが)、何を聞いてもちょっと薄っぺらな感じがしてしまうのはもう仕方がないのかもしれないけれど、気に入ったラジオ局(カナダらしい)のものをずっと聞いている。
「ねないこだれだ」「ちいさなうさこちゃん」「かくしたのだれ」といった定番あかちゃん絵本ではあるが、この3冊の共通点は、ほぼ正方形の小さなサイズということ。今QPさんにはこの三冊を交互にずっと延々と、ひたすら読むというブームが訪れている。読むといっても当然、わたしに読ませるわけだが、どれも短い文章なので、適当に暗記してしまったものを上の空で読んだりされるのは言語同断!らしく、きちんとそれなりに動作を付けたり声の抑揚を変えたりして読んでもらわなければ困るらしい。それでなんどもだめ出しをされて、わが子ながらこのこだわりとしつこさは、親譲りなんだろうなあと、頭が痛くなった。
_ tDiaryはメンテナンス中?だとかで、一回アップロードして公開してしまうと、修正ができなくなってしまっている模様。昨日の日記は、そういうわけで、文章の推敲ができなくて、いつにましてへたくそ文章のお手本になっています。恥ずかしいのでわたしもなんとかしたいのですが、どうにもできないようです。メンテナンスが完全に終了するまでの辛抱のようです。
_ また子どもと一緒に豆を莢から取りだして、今回は豆ごはんを炊いた。今回は、昆布、酒、みりん、砂糖、塩を入れるというレシピ。いつもは、みりん、砂糖は入れない。ごはんがふっくらとやわらかく炊けたのがうれしい。
_ ずっと未開封にしていた先輩からのメール二通は、先週末、ひっそりと読んでみた。なんのことはない(期待していたような厳しいことばとか叱責はなく)当たり障りのない返信で、そりゃそうやなあと、なにか過剰に反応(というか期待)していた自分がやっぱりただの自意識過剰さんだったということで、解決しました。めでたし、めでたし。というか、そりゃそうとしか書けへんわなあ。。という感じでした。ああ、こりゃこりゃ、です。
_ 図書館にて。子どもが保育園に行っている間に銀行、郵便局、図書館へ。頭を使わずに読めるものがいいなと思って、桐野夏生「東京島」、堀江敏幸「本の音」、俵万智「かーかん、はあい」(正・続)。「東京島」は、、、珍しく中途半端な気がした。もっと厚い記述に仕上げることもできただろうにそうしなかったのは、とても表層的なところだけを書くことで、逆にリアリティを出そうとしたのかな、という一般的な感想しか思いつかないんだけど、想像力はかき立てられた。15少年漂流記にしろ、ロビンソン・クルーソーにしろ(スイスのロビンソンも含めて)、最初からある程度、ものがある状態で漂着するというのは、出来事の悲壮さの割合を大幅に緩和するような気もする。だから、生存本能に従って、ありったけの英知と知見を振り絞って、逆境を乗り越えていこうというエネルギーも沸いてくるのだろう。そういう、ストーリーとは関係のないことを考えながら読み終えたので、よけいに「出来事」の表面だけを斜め読みした感がぬぐえない。すみません。
_ 某日。サラ・ウォーターズ、エアーズ家の没落(上・下)、創元推理文庫。狂気に陥った人間と正気の人の対比に力点が置かれているわけではないし、明らかに存在するという前提に立った上での「館」そのものの邪悪さといったものは、キングの「シャイニング」ほどに背筋を凍らせるような怖さを感じさせることはない。シャイニングの場合、わたしは背表紙の文字に目を遣ることもできなかったくらいだった。しかしだからといって、怖くないというわけではない。むしろ解説の解釈とは違うのだけど、この館の邪悪さを「誘発」というか眠りを覚ましたのは、メイドのベティではなくて、信頼ならない語り手である田舎医師なのではないかと思った。10歳の時、ガーデンパーティーの時、誰もが少し気分を高揚させていたあの午後に、10歳の少年だった医師は、越えてはならなかったはずのカーテンの向こう側に足を踏み入れ、石膏細工の装飾のドングリをもぎ取ってしまった。この館との関わりが、それから30年後に医師として足を踏み入れた領主館で、ベティの診察をきっかけに始まってしまう。なぜこの医師は、それほどまでにこの館に執着するのか。エアーズ家の誰よりも、この家を賛美し正気の人びとの健全なる精神を蝕んでいく館の不穏さ、邪悪さを直視しなかったのか。きっと、30年前に館に魅入られた少年の再訪を、館はずっと待っていたのではなかっただろうか。一気に読んでしまったけれど、カタルシスがなかったのは、この医師が一時的には愛する人を亡くしたりして傷ついたとはいえ、館に対する執着を未だに持ち続けているからなのだろう。その、館と彼だけが理解し合っている狂気の表現が、イギリスの小説らしく上品に抑えられていたからなのかもしれない。そういう意味では、シャイニングよりも怖いというべきか。
_ 某日。サラ・ウォーターズ、エアーズ家の没落(上・下)、創元推理文庫。狂気に陥った人間と正気の人の対比に力点が置かれているわけではないし、明らかに存在するという前提に立った上での「館」そのものの邪悪さといったものは、キングの「シャイニング」ほどに背筋を凍らせるような怖さを感じさせることはない。シャイニングの場合、わたしは背表紙の文字に目を遣ることもできなかったくらいだった。しかしだからといって、怖くないというわけではない。むしろ解説の解釈とは違うのだけど、この館の邪悪さを「誘発」というか眠りを覚ましたのは、メイドのベティではなくて、信頼ならない語り手である田舎医師なのではないかと思った。10歳の時、ガーデンパーティーの時、誰もが少し気分を高揚させていたあの午後に、10歳の少年だった医師は、越えてはならなかったはずのカーテンの向こう側に足を踏み入れ、石膏細工の装飾のドングリをもぎ取ってしまった。この館との関わりが、それから30年後に医師として足を踏み入れた領主館で、ベティの診察をきっかけに始まってしまう。なぜこの医師は、それほどまでにこの館に執着するのか。エアーズ家の誰よりも、この家を賛美し正気の人びとの健全なる精神を蝕んでいく館の不穏さ、邪悪さを直視しなかったのか。きっと、30年前に館に魅入られた少年の再訪を、館はずっと待っていたのではなかっただろうか。一気に読んでしまったけれど、カタルシスがなかったのは、この医師が一時的には愛する人を亡くしたりして傷ついたとはいえ、館に対する執着を未だに持ち続けているからなのだろう。その、館と彼だけが理解し合っている狂気の表現が、イギリスの小説らしく上品に抑えられていたからなのかもしれない。そういう意味では、シャイニングよりも怖いというべきか。The Littel Starangerという原題を「誰」に解釈するかで、恐怖の度合いが変わるかも知れない。そういう意味で、解説の解釈とわたしの感想は異なる。