_ 細切れにこの日記を書いているので、書き始めたときと書き終わったときとで、温度差があったり、なんだか終始一貫していなかったりして恥ずかしい思いをしていますが、アガサ・クリスティはほとんどはずれることはないし、はずれたとしてもなんというのか、弘法にも筆の誤りとか猿も木から落ちたんだなと思っておしまい、、ということを書きたかったのに、書き終わったときはそんなことも忘れていたという体たらくでありました。もっともクリスティの小説は、読むのも辛いような陰惨な殺人は、ほとんどありませんというのが気に入っている。そういう感じで読んでいるので、クリスティの中でもっとも好きなのが「春にして君を離れ」だというのも当然なのでしょうか。この小説はある意味、殺人事件なんかよりももっともっと冷酷である。何に対して冷酷なのか。書き手の突き放し方だとも言えるし、読み手が主人公をぐっと下に見下ろすような高見にいるような錯覚を与えてくれるところだともいえる。実際、こんな愚かな中年女性は困ったもんやね、、なんて笑って読了する人もいるだろうけれど、多くの人は、心の底で(いやいや、これってわたしのことだよなー)なんて思ったりするのではなかろうか。。もしそう思わないで読了できたとしたら、それは幸せなことでもあり、不幸なことでもあるように思う。でも結局、主人公は救われないわけで(もちろん、本人は自分が救われるとか救われないとか気にするタイプではない:そうなりかけたとはいえるが)。クリスティの小説は全部読んでみたい。とくに、メアリ・ウェストマコット名義で書かれたものを。
ポアロかミス・マープルといわれれば、断然、後者。でも、トミーとタペンスものも読んでいて楽しい。しかし自分の一番好きな推理モノは、やはりドロシー・セイヤーズかなと思う。
_ 最近、図書館でアガサ・クリスティを片端から借りて読んでいる。大体、2−3冊ずつを在架のものから適当に選び、あと数冊、目に付いた本をやはり片端から借りている。そうやって図書館を歩いていて思うのは、面白そうな本を選ぶ嗅覚ががっくりするほど退化してしまっているということだ。もう随分前から本屋で適当に本を買うことができなくなっていて(経済的にという理由がなのではあるが:苦)、その理由が装幀やら題名やらが放つテレパシーをキャッチできなくなってしまったような気がすることの自覚はあった。主要な原因のほかに思い当たるのは、大密林書店で買いすぎているため、本の評判を読んでからしか買えなくなったということである。書評ではない、よその人の感想や、売れているのかそうでないのかといったことを頼りに本を買うようになってしまったのである。だから、山ほどある図書館の本を見ても、心がときめかなくなってしまったのだろう。自分で読みたい本を選べなくなるなんて、なんということ!なんとかしなければ!
_ 朝、早めに朝食を摂って、携帯電話屋で去年の夏にもらった団扇に小さい穴と、ちょっと大きめの穴をふたつあけて、子どもと外へ。もうたくさんの人が道に出ている。太陽の光が当たるように団扇の角度をあれこれ試して、小さい三日月が見えるように併せた。子どもは、なにがなんだかわからないようで、きゃっきゃと飛び跳ねている。背中にクマを背負って外に出たものだから、それがうれしかったのだろう。近所の人がグラスを貸してくれたので、しばらく3人で交代交代で金環日食を観察。きれいだったなあ。次は18年後、でしたっけ。そのときもまた子どもと一緒に見られるかな。別の場所でそれぞれ見ているかな。もっともっとおひさまみたいと、駄々をこね始めた子どもをなだめながら、保育園に送っていくと、小さい組さんたちの園庭の木漏れ日で、まだ三日月の形をしていた太陽が、10個余り、砂場の上でゆらゆらと揺れて見えた。子どもは先生にグラスを貸してもらって、少しご機嫌を取り戻したようだった。日食というと、スティーブン・キングの小説にもある。ふたつの別々の小説なのだけど、双方に少しずつ、もうひとつの小説の事件の情報が書かれているもの。本棚に置いてあるだけで怖くてしかたがなかった「シャイニング」よりは、ずっと普通のミステリーだったので、むしろ今、どんなんやったっけ?と思い出そうとしてしまったほどだ。。いずれにせよ、ちょっと特別な一日の始まりでしたね。
_ 「おかあさんといっしょ」の歌の中に、もう何十年も前の歌謡曲ではないかなと思うのだが、「ホ!ホ!ホ!」という歌がある。最新のビデオブックにも入っている。子どもはこの歌が大好きである。この歌をYoutubeなどで探して聞かせると、狂喜して飛び跳ねる。そして「ママも一緒に!」などといって、わたしの手を取り、飛び跳ねる。この歌はわたしも好きだ。とても軽快なリズムで、覚えやすいフリつけと歌詞で、歌いながら踊るととても楽しい。基本的に、毎日むっつりと過ごしているので、ときどきこのように体を動かしてみると、血管が脈打ち、体が熱くなってきて、「わあ、生きているんだな!」と思ったりするほどだ。もちろん子どもと外出してブランコに乗ったりするし、毎日、いわゆる家事労働に従事しているから、機械的には動いている。しかし、能動的に喜怒哀楽を表すために体を動かすということはとんとないのである。そこで、この「ホ!ホ!ホ!」は、本当になんというのか、脱日常の体の動きということで、「生きている」感がたちまちあらゆる毛細血管にも廻るのかもしれない。かといって、別になにかカタルシスがあるというほどの激しい動きではもちろんないし、踊りの振付だって、踊り音痴のわたしでさえ、初見でまねっこできるほどの単純極まりないものである。なんにせよ、今のわたしにとっては、単調さをさわやかに乱してくれる変拍子のようなものだ。子どもはわたしがこれを踊って、けたけたと笑い転げると、うれしく思うようだ。こんなに小さいの親を心配させるようなことをさせてしまって申し訳ない。
_ 手続きがいろいろあったので、それを済ませてからひさびさに四条界隈を歩いた。早い時間だったので、あまりお店も開いてなかったけれど、こんなふうに、好きな街をあてどなく歩くことなど久方ぶりだったので、のんびりとぶらぶらとした。歩いて歩いて、手芸屋さんで端布を見ていたら、あっという間にお昼になってしまっていてびっくりする。もう清水の舞台から飛び降りたつもりで、3年ぶりくらいで、ひとりでごはんを食べるときにはよく利用してきたベトナム料理やさんへ。のんびりとゆっくりとしっかりと、一人で楽しいお昼の時間を過ごした。コーヒーを飲みながら、少し本を読んで、百貨店の地下で野菜を買って帰宅。バラ印百貨店の野菜売り場は、うちの近所のスーパーとおなじかそれよりも安い値段で、よいものが買えるので、実は密かにひいきにしている。昼下がりの電車に乗って、本を読んでいるうちにあっという間に家に着いた。ベトナムやのお姉さんが、ほんとにとてもすてきな人で、毎回、この人に会うと、とてもうれしくなる。ーやっと、パートが決まったんですよ!−とか、ー今、読んでいるこの小説(アン・タイラー再読中)、ものすごくおもしろいんですーとか、ー今日の揚げ春巻き、ものすごくおいしかったです!ーとか、話しかけたい衝動を必死に抑えて(いや、別に話しかけたって、全然OKだったのかもしれないけど)、とても幸せな気分になった。今はほとんど友だちもいないし、基本的にいつも自分の心の声とエンドレスな問答を続けているだけ。ママ友もいないし(子ども自身にはたくさん友だちはいる:とくにお気に入りは、昼寝のときによく隣になるらしいレオンくんだそうだ:子どものクラスには、【子】が付く名前の女の子はもちろんいない。母親の名前だって、わたしと数名だけが昭和の名前なんじゃないかと思う。。)、銀行や郵便局、いきつけのスーパーで顔なじみになった人に声をかけてもらうと、うれしくてもしかして尻尾を振ってしまってるんじゃなかろうかと、思わず
おしりに手をやって確認してしまいそうなほどだったりするのである。困ったことだ。わたしが生きているかどうか、定期的に連絡してくれる先輩と、子どもの成長が如何に光陰矢のごとしであるかについて毎回、演劇の台本をよんでいるかのような会話をするくらいしか、他人と話すことはないのだけれど、それにもとくに不満もない。こうやって、粛々と、毎日毎日、判を押したように同じ日々を過ごすのもおもしろくはないけれど慣れた。子どもの「いいまつがい」や元気な歌声だけが、わたしの日常においては予測できない事象である。子どもはわたしの古いMacintoshの全体に、クレヨンでいたずら書きをしてくれた。叱るべきことではあるのだけど、こういう存在がわたしの日常の中にいるということがおかしくて、頭を撫でてやったのだった。パートが始まれば、また新しい規則正しい日常に上書きされるのだろう。楽しくなくても、おもしろくなくてもよい。つらいものでなければ、それでよい。