_ 子どもがクマのぬいぐるみをおんぶして、「くまちゃんが熱を出したよー」という。そりゃ、たいへんやなーといって、引き出しから体温計を出すと、たいへん慣れた手つきでボタンを押し、くまちゃんの脇に挟んでやったりしている。エラー表示が出た体温計を見て、「お薬を飲むの!」という。冷蔵庫に常備している熱さましのジェル状シートを出して欲しいという。くまちゃんの額にシートを貼って、子どもは枕元に座り、ときどきタオルで汗を拭いたりしてやっている(らしい)。子どもって、ほんとによく見ているものだ。。
子どもの髪が伸びてきたので、新聞を床に敷いて、散髪屋をした。子どもは神妙な面持ちで、じょきじょきという鋏の音に耳をすませ、微動だにしない。そして時折、持たせている手鏡を見ている。こちらは緊張の度合いが高まり、手が震えて、恐ろしくおかしな髪型に切ってしまった上、一人で大爆笑してしまったりした。すると子どもも何か楽しいことがあったんだねおかーさん、という表情でやはり笑っている。いつまでこうして髪を切らせてくれるだろうか。
_ 例によって、朝、子どもを保育園に送っていったあと、残りのコーヒーを飲みながら新聞読んで、予約本を取りに雨の中、傘を差して返却本の重さをずっしりと肩に食い込ませて、図書館へ。月に一度のケーキの日なので、子どものケーキを帰りに買い、日付の過ぎたうどんであんかけを作り、ぼんやりまたいつものようにYouTubeで時間を潰していた。押尾コータロー、谷村新司、坂崎幸之助が歌う「遠くで汽笛を聞きながら」を聞きながら、不覚にも落涙。ーー俺を見捨てた人を恨んで生きるよりーーむなしい涙の捨て場所をーー探してみたい、遠くで汽笛を聞きながらーーなにもいいことがなかったこの街でーー。わたしの汽車がいつ来るのかわからないし、切符をどこで探せばよいのかわからないけれど。そのときまで、がんばってみること。
_ 細切れにこの日記を書いているので、書き始めたときと書き終わったときとで、温度差があったり、なんだか終始一貫していなかったりして恥ずかしい思いをしていますが、アガサ・クリスティはほとんどはずれることはないし、はずれたとしてもなんというのか、弘法にも筆の誤りとか猿も木から落ちたんだなと思っておしまい、、ということを書きたかったのに、書き終わったときはそんなことも忘れていたという体たらくでありました。もっともクリスティの小説は、読むのも辛いような陰惨な殺人は、ほとんどありませんというのが気に入っている。そういう感じで読んでいるので、クリスティの中でもっとも好きなのが「春にして君を離れ」だというのも当然なのでしょうか。この小説はある意味、殺人事件なんかよりももっともっと冷酷である。何に対して冷酷なのか。書き手の突き放し方だとも言えるし、読み手が主人公をぐっと下に見下ろすような高見にいるような錯覚を与えてくれるところだともいえる。実際、こんな愚かな中年女性は困ったもんやね、、なんて笑って読了する人もいるだろうけれど、多くの人は、心の底で(いやいや、これってわたしのことだよなー)なんて思ったりするのではなかろうか。。もしそう思わないで読了できたとしたら、それは幸せなことでもあり、不幸なことでもあるように思う。でも結局、主人公は救われないわけで(もちろん、本人は自分が救われるとか救われないとか気にするタイプではない:そうなりかけたとはいえるが)。クリスティの小説は全部読んでみたい。とくに、メアリ・ウェストマコット名義で書かれたものを。
ポアロかミス・マープルといわれれば、断然、後者。でも、トミーとタペンスものも読んでいて楽しい。しかし自分の一番好きな推理モノは、やはりドロシー・セイヤーズかなと思う。
_ 最近、図書館でアガサ・クリスティを片端から借りて読んでいる。大体、2−3冊ずつを在架のものから適当に選び、あと数冊、目に付いた本をやはり片端から借りている。そうやって図書館を歩いていて思うのは、面白そうな本を選ぶ嗅覚ががっくりするほど退化してしまっているということだ。もう随分前から本屋で適当に本を買うことができなくなっていて(経済的にという理由がなのではあるが:苦)、その理由が装幀やら題名やらが放つテレパシーをキャッチできなくなってしまったような気がすることの自覚はあった。主要な原因のほかに思い当たるのは、大密林書店で買いすぎているため、本の評判を読んでからしか買えなくなったということである。書評ではない、よその人の感想や、売れているのかそうでないのかといったことを頼りに本を買うようになってしまったのである。だから、山ほどある図書館の本を見ても、心がときめかなくなってしまったのだろう。自分で読みたい本を選べなくなるなんて、なんということ!なんとかしなければ!
_ 朝、早めに朝食を摂って、携帯電話屋で去年の夏にもらった団扇に小さい穴と、ちょっと大きめの穴をふたつあけて、子どもと外へ。もうたくさんの人が道に出ている。太陽の光が当たるように団扇の角度をあれこれ試して、小さい三日月が見えるように併せた。子どもは、なにがなんだかわからないようで、きゃっきゃと飛び跳ねている。背中にクマを背負って外に出たものだから、それがうれしかったのだろう。近所の人がグラスを貸してくれたので、しばらく3人で交代交代で金環日食を観察。きれいだったなあ。次は18年後、でしたっけ。そのときもまた子どもと一緒に見られるかな。別の場所でそれぞれ見ているかな。もっともっとおひさまみたいと、駄々をこね始めた子どもをなだめながら、保育園に送っていくと、小さい組さんたちの園庭の木漏れ日で、まだ三日月の形をしていた太陽が、10個余り、砂場の上でゆらゆらと揺れて見えた。子どもは先生にグラスを貸してもらって、少しご機嫌を取り戻したようだった。日食というと、スティーブン・キングの小説にもある。ふたつの別々の小説なのだけど、双方に少しずつ、もうひとつの小説の事件の情報が書かれているもの。本棚に置いてあるだけで怖くてしかたがなかった「シャイニング」よりは、ずっと普通のミステリーだったので、むしろ今、どんなんやったっけ?と思い出そうとしてしまったほどだ。。いずれにせよ、ちょっと特別な一日の始まりでしたね。
_ ラギ [そうそう、おままごとや看病のしぐさなんかに、自分のくせや動きが模写されてるようでどきっとしますよね。いまは、片付けの..]
_ ね [ほんと、子どもは親を映す鏡なのですね。。しみじみ(笑)。 うちのこどもの散髪屋なのですが、前髪がいつもぱっつんぱっつ..]