_ 海外に住んでいると、日本では絶対に知り合いにならないような人と知り合いになったりする。わたしは何も自慢するようなことはないので、初めて出会った人にも、ある程度長く知り合いでいる人にも、基本的にはあまり深い話はしないようにしている。この時代だからということもあるが、海外に住んでいる一部の日本の人が、そこで知ったことを実に見事に次の人に明かすことが多いということを、今の場所に根を下ろすようになって初めてわかった。信用とまではいわないけれど、まさかこんな個人的なことを誰かに話すことはないだろう、とさえ思いもしなかったようなことを、実に気軽に次の人へ、そしてまたその人は次の人へと話していかれたこともあった。そういうのは個人の資質の問題で、海外に住んでいようがいまいが、どこでだってその人がいるところではありうることなのかもしれない。わたしはそういうことに関して、とても疎い人間だったということなのだろう。今はよほどのことがない限り、愚痴のひとつだってこぼさないようにしている。人を見る目がないことがいいことなのか悪いことなのか。すくなくともわたしに関しては、人を信用しすぎるのは見る目がないことであり、もっと自分を守るということを考えなければもっとひどい目に合う、と今では思っている。このことは、あまりよいことではないとは思いつつも、海外に住んでいるということを理由に、自分では納得している。人を信頼するのは信頼されるよりもむずかしい。性悪説がいいということではなく、もっと見極めて、ものごとをよく見て考えなければと思っている。
この半年ほど、わりと頻繁に会って話をする人がいた。同性だし、わたしにとっては少し年上のイトコやわかいオバのような気安さもあって、食事やお茶もよくしたし、仕事の話などもよくした。基本的にはとてもよい人だと思う。ただ、そうしている間にわたしのことを懐柔させやすい人間だとみられたのか、どちらかというとその領域に踏み込んでもらう必要はまったくないということに、最近、あれこれ意見をされるようになってきた。
たとえば服装とか髪型とか化粧の仕方とかそういうことである。いつも幸運を呼び込むためには白い服を着る必要がある、髪は一か月に一度はカットしなければならない、二週間に一度はエステで手入れをしなければならない、人は見た目が大事、とかそういうことである。それぞれ大なり小なり、悪いことではないと思う。余裕があればそうすればよいことで、わたしはそうする人のことをそれは素敵なことですねとは思うものの、そうしない/できない人のことまで考えたりすることはしない。見た目とはいうが、それは内面あるものが映し出される話であって、そうでなければ何をしたって白塗りになるだけの話である。
ここにAさんという人がいる。Aさんは、どちらかといえばクラスにひとりはいそうなタイプのファッション雑誌とかほとんど読みそうにないタイプで、流行とかそういうことに関係なく、自分のセンスを大事にし、それさえも開拓の余地はまだまだあるから、いろいろと冒険して挑戦している途上にあって、いつかきっと自分の型のようなものを手に入れるはずの人である。なんといってもこの人はものすごく難しいことで知られるある国家資格を持っている人なのだ。この資格には、頭の良さや技術だけでなくセンスも必要とされる。わたしはそれだけでもう尊敬してしまうのである。
このAさんのことを、年上のイトコかオバのような人は、かなり辛辣にコメントをする。服装とか髪型についての感想はまだしも、化粧だとか肌の手入れだとかもっと込み入ったことまで、干渉している。わたしだったら耐えられないと思っていたし、いつかAさんに、年上の人からのコメントはあまり気にしなくてもいいんじゃない?と言いたいと思っていたくらいなのである。わたしに言わせれば、Aさんのどこかギクシャクとしているところはすべて経験の少なさから来ているだけのことだ。これからいくらだって、自分の力で変わっていく人だと思っていた。それが、このAさんを変えることに成功したと年上のイトコかオバのような人は思い込んだのか、次なるターゲットはわたしだと思うようになったらしい。わたしは、人が美しく見えるのは、服装とか化粧とか髪型よりもむしろ、姿勢とか内面だと思っている。姿勢というのは態度のことではなく、物理的な立ち姿とか歩き方とかそういうもののことだ。どんなにきれいにしていても、背中がしゃんとしていないのはよくない。そう思っているから、年上のその方がわたしに触手を伸ばしてきたときも、さらりとかわすことができた。人の意見に耳を傾けないとかそういうことではなくて、ある領域に関しては、わたしはできるだけ自分の考えをとおしたいというだけのことなのだ。研究とか仕事に関しては、最終的に決めるのはもちろんわたしだけど、できるだけいろいろな人の意見を聞きたいと思っている。風水的には黄色の服とか茶色の服はよくないと、わたしの場合は書かれていたりするのだけど、自分が着たいと思ったら、なにを着たっていいと思うから、よく着ている。外で素敵な人をみたら、その人みたいな服をまねっこしたっていいとも思う。今よりも素敵な化粧の仕方があるならば、挑戦したっていいし、エステにだっていけばいいのだ。
でもわたしがそうしないのはひとつには、別に今、問題があるとは思わないこと、ふたつめには経済的な余裕がないこと、これだけである。
見た目が変わることと経済的状況の改善にはもしかすると相関関係があるのかもしれない。でもそれよりも、年上のイトコかオバのような人のやり方は、どこか人をコントロールするようなところが感じられて、違和感を覚えるのだ
人を変えるということは、その人が今もっているすべての資質を否定するようなところがある。人に影響を与えるということは、意図せずに、ある人が持っているよい部分(悪い分のときもあるかもしれないけれど)をほかの人が「欲しい!」と思わせるようなことだと思う。海外をあちらこちら回って活躍してこられて、華々しい経歴のあるかただけに、自分の成功への道のりとおなじものを、他者にも与えたい人なのかもしれないけれど、日本でもし知り合ったのだとしたら、わたしは今ほど深く知り合うようにはならなかったようにも思う。わたしが思う素敵な人は、姿勢がよくて、話す言葉が美しい人だ。内面の美しさは、言葉や表情になって、外に出てくるのだと思う。
_ スクールバスの運転手が急病とのことで、夕方、子どもを迎えに行く。この頃は子どもをバイクに乗せるのにも少しだけ慣れてきた。外で食べて帰ろうかということになって、南のほうにあるカフェレストランへ行くことになった。植民地時代にはさぞかし大きな邸宅だったであろう家を改造して、中庭のある素敵なカフェになっている。中には音楽隊の演奏できる場所もある。あとは大きな区画としては3つの空間とオープンキッチン。ここはとても人気のカフェで、とてもおいしくてボリュームもあるのに、とても安い。わたしたちはしかし、初めて来た。いつも満席で並ばなければいけなかったり、ここでは並ばなくてもほかにいくらでも食べるお店はあるということもあって、今回初めて着席することができた。というのも、今にも降り出しそうな天気だったから、だれも来なかったのだろう。インドアの形式だけど、どの部屋には冷房がない設えなのである。外国人御用達のお店ではない理由は、メニューがローカルフーズ中心だからだ。だからここはテロの標的には成り得ないと信じている。。。本当は素敵なチークのテーブルのある空間に座りたかったのだが、子どもはラウンジ空間にこだわった。それふうの足は木製だけど、すわるところは布張りで、椅子に座ると膝頭が胸のあたりに迫り来るような低い座席である。コーヒーを飲んだりするだけならOKAYなんだけど、ごはん食べるのにこういうのは食べにくいよと子どもを諭すも、聞く耳持たず。わたしはフェットチーネ風焼きそば、こどもはラザーニャといういかにも似つかわしいようなそうでないようなメニューを選んだ。わたしの焼きそばは、なんとすき焼き味だった。意外にもおいしい。子どもは半分くらい、わたしのを食べた。ラザーニャは待てど暮らせどなかなか来ない。焼きそばを食べ終わって大分経ってから来た。わたしの知っているラザーニャとは随分違って、中にボロネーズ風のものだとかミートソース風のものは入っていない。そのかわり、なんだかよくわかないホワイトソース風の、どことなくホワイトシチュー風のなにかが入っていた。しかしおいしかった。当地のラザーニャはほとんどが作り置きで、大きな四角い皿で作ったのを切り分けて出てくる。今日食べたのは、グラタン皿に入っていて、長い時間、オーブンで調理されたものだった。とてもおいしかった。外国人の意見というより、ここの人が実際にラザーニャを食べて、何度も食べて、それならこういう味もありかなと思って完成させたようなところがあって、家庭料理的でとてもおいしかった。焼きそばもそうだった。野菜がたくさん、魚介類もたくさん、お肉も入っていて、完成度が高い。焼きそばにつきものの油っぽさもほとんど感じられず、こういうおいしいお店だったら、お客さんもたくさん来るよなあー、と思ったのでした。また行きたい。今度は、メニューの写真では恐ろしく大きくて、だから敬遠したのだけど、他のお客さんのほとんどが食べていたハンバーガーを食べてみたい。きっとおいしいのだと思う。
_ 月末にあわただしく学会のパネルメンバーで打ち合わせをしたと思っていたら、もうとっくに予稿集の締め切りが来ていて、一日遅れで提出。でもなんともいい加減な内容でなかったことにしたいくらい。でも結構、意欲的なテーマだとも思うので、なんとか当日までに修正を試みる所存です。
_ 衝動買い的に、青いドレスシャツ。真っ青な、郷ひろみか田原俊彦かという色。お店では全然気が付かなった。でも家に帰ってから落ち着いてみてみたら、舞台衣装?のようなただのおばはんチュニックになっていた。なぜだろう?でも千円しないわけで、なんだかもうどうでもいい。一体、どんな状況で、どこに着ていけばいいだろか。あるいは一度、洗濯すればよくなるか…な。
_ 今週は推薦状ばっかり書いていた。一通はヨーロッパへ留学するという卒業生のために、ヨーロッパの某有名大学へ宛てて。もう一通はいまの契約が終わったら、別の大学へ行きたいという日本人の知り合いの先生に。こちらは年上の人なので、推薦状をどう書けばよいのかわからなかった。ご本人のお書きになったひな形では、敬語尊敬語のおんぱーれど。しかし普通、推薦状というものは敬語体をあんまり使わないんじゃなかったっけなどとあれこれ繙いて、ちょっと大変だった。いずれの二人も、うまくいけば本人のおかげ、だめだったら推薦状が悪かったと思ってくださいと、あらかじめ詫びを入れた。
_ もう8月ぢゃないか!
新学期の準備とか、頼まれ仕事の準備とか、研究報告の準備とかでてんてこ舞いしている。それなのにどこか地に足がついていないようなところがあって、忙しさも何かしら半分に感じていたりもする。早くいろいろと片付いてほしいところだ。
昔よく作っていたのに最近、とんと作らなくなった料理というのに、ヒジキときんぴらがある。酒・みりんが手に入りにくいとかゴボウとかこんにゃくも全然みたことがないという事情が大きい。もっともヒジキだけで作ってもいいのだけど、やっぱりちょっとさみしかったりする。ゴボウに似た野菜を見つけてきんぴらもつくってみたんだけど、おいしいのかそうでないのか、食べた後でもなおよくわからない種類の味の野菜だった。ヒジキだけはたくさんあるので、お味噌汁に入れたりシチューやカレーにいれたりとかして食べている。シチューとかカレーも、ルーを使わないで作るので、日本にいた時に食べていたようなドロッとした食感のものではなく、いかにもエスニックな感じがするようになった。とくにカレーは、キャベツを入れるとものすごくおいしいということを発見した。キャベツと玉ねぎ、シーチキンとかで作るのが好き。それとハンバーグだねを丸めないで、そのままフライパンに敷き詰めて焼く偽ミートローフも気に入っている。きちんとはしているんだけど、自分の手の雑菌処理に不安があるので、できるだけ手でこねたりしたくないというところが出発点だった。たまたまフライパンで作るミートローフという記事を読んだこともあって、作ってみたら、便利だし、趣向が変わって、子どもも喜んだ。難点は、ハンバーグを焼いた場合においしくできるソースが作れないこと。それだけかな。
日本にいたときは、テレビをほとんどみなかったので、だれがだれかよくわからなかった。基本的に今もそうなんだけど、バナナマンという二人組が出ているNHKの音楽関係番組が面白くて気に入っている。バナナマンの二人はがさつではなく、どこか鷹揚としたしたところが安心する。それでこの二人には全然似ていないのだけど、子どもが気に入ってよく見ている「ズートピア」というディズニー映画に、お役所で働くナマケモノという動物が出てくる。ナマケモノのくせに名前がFlashだったり、スピード違反で捕まったりするのだが、いつも二人を思い出す。目下、つらいことがあったり、へたばりそうな気分のときは、いつもナマケモノが登場するシーンを思い出したり、バナナマンの二人を思い出したりして、なんとかしのいでいるのであった。でも「ズートピア」は、結構、おもしろいんですよ。個人的には「インサイド・アウト」よりも面白いと思う。
_ 先日、荷物を開梱して以来、長い間読まずにいた本の読み直しに没頭している。水を飲むような気持ちさえする。だからといって決して気が晴れるということでないのだけど、美しい日本語にうっとりとしながら言葉の海を漂っている。
子どもが小学一年生になった。もちろんランドセルも桜の花もなく、コサージュを付けた晴れ着のお母さんたちと一緒の記念撮影もない。教科書の配布だってないわけで(教科書がないからです!)、その代わり、給食袋を縫ったりもしなくてよい。でもちょっとさみしいような気がするのは、日本人だからだろう。最近は『エルマーとりゅう』がお気に入りの子ども。わたしも自分のりゅうがほしい。いやほんとにどこでもドアが欲しい。タケコプターでジェット気流に乗るわけにもいかないから、なにかすっと一足飛びで日本に帰れる道具がほしい。日々、テロの恐怖におびえながらくらさなくてもいい場所なんてどこにもないのかもしれないけれど、新しい合衆国大統領がだれになっても、世界の流れはもう止まらないのかもしれないけれど、どこか静かな場所でなんの心配もしなくてもよい場所に行きたい。ずっと緊張し続けているのに疲れてきている。7月は誰もをそんな気持ちにさせる出来事が続いた。どこかで流れが切り替わらないものかと思う。
我が家の一年生と先日の日曜日は、近所の田んぼを歩いた。水路にはカニがたくさん、タニシがたくさんで、時々、見事な平泳ぎの後ろ足を見せるカエルもいた。のんびりした時間を過ごしたような書き方をしているが、この裏道は知る人ぞ知る抜け道でもある。ビュンビュンと切れ目なく走ってくる車やバイクにおびえながら、水路をのぞき込む親子は奇異に映ったと見え、中にはバイクを止めて、「大丈夫ですか?」と聞いてくる人もいた。ただ自然(みたいなもの)を見ているだけで、心配されたり不審がられたりする。いつかきっといい時代がまた来ると思って、子どもと一緒に苗が植えられたばかりの田んぼの道を歩いた。